「読み始めた本がおもしろいよ」と友人からLINEが来る。「多摩美の芸祭のはなしなの」。タイトルを検索かけて、あれ会田誠さんって多摩美だっけ? 「芸大。昔、ウチの芸祭に来て驚いたらしい」 へえ。
この友人はときどき、わたしにとっての「神の声」を降らす。なんかテレビでやってたから。と渡されたメモは、そのあとわたしの大きな指針になるとかね。
なので、この本も即買い。
↓↓ リンク先はKindleだけど、買ったのは紙の本です。
で。芸祭ってのは多摩美の学生主催の秋の文化祭のことなんだけど、
昨今は女子学生が増え、それに伴う親御さんのチェック&クレームに、アルコールなしで時間厳守の祭りと化し、この本に書かれているカオスはもう見る影もないそうです。
(そうね。あげんさんの大学時代は、こーいう世界観の中で揉まれたのね。なるほど。の参考にはなります)
この本すごいなと思うのは、読みやすい青春時代の告白の態だけど、ち密な計算で描かれているある種の芸術論(結論はない)で、だけど、みじんにもそんな感じを残してないこと。
そうか、と思うのは、
わたしは美大って、100人1000人の中にいるひとりの天才を支え、持ち上げる(学費も含めて)ためのシステムかもなあとも感じていて。
(だからと言ってその他が不幸だというわけでなく、その他なりの人生の豊かさの追求は確実にあり)
会田誠は天才の側だよねえ。うん。そうか、やっぱりな。
そして読み終えてからはずっと、
(↓↓ちょっとネタバレ)
描きたいように描いた絵は、案外、評価(受験の合否)されないってことを、わたしは深く受け止め、考えてます。だよねえ。他人の価値観、わかりやすさとの兼ね合い。ああ。
以前、清春白樺美術館で、父に現代アートとは何かを説明するとき、一番わかってもらえたのが、会田誠さんのお弁当のオブジェでした。そこが理解できたら、他の作品のおもしろさやつまらなさが広がったようで。
一度だけ、お見かけしました。
フェスティバル・トーキョーという演劇イベントに、一度だけボランティア・スタッフとして参加しました。や、なんか同じボランティアなのに、若いコたちに基礎の基礎を教える側に廻りがちになり、搾取され感が半端ないので一年でやめたのですが。(若い演劇人たちとの有益な会話もあったけれどね)
それは、演劇とインスタレーション(空間デザイン体験)を足して割ったような作品についたときで。劇場を変化し続けるギャラリーとして構成し、客たちは作家の意図をたどって歩き回り、最後にメッセージにたどり着くという。
あーそのときもねえ。
ボランティアは普通、受付とかロビーの補助とかをして、中抜けで作品をみせてもらうというのがスタンスなのに。マチネはね、わたしもその扱いだったのだけれど。
ソワレでいきなり、お客を誘導する係を振られたの。その場で地図を覚え、流れと手順を覚え、まあ、作家の意図が分かりやすかったから(マチネで理解できてた)、どうにかこなせたようなもので。(1時間ミスなし! 褒めて!)
そのときのお客の中に、わ、会田誠だ! (←心の声)
お客の誘導には、無言での座ってください、立ってくださいという所作も含まれていて、きゃ、こっち見たわ、見たわ~! (←心の声)
あのときほど、
この作品をどう見ましたか? と、ご感想を聞いてみたかったことはない。けど、かなうはずもなかった。
さて。『げいさい』の冒頭の、パフォーマンスを観ている描写の中に。
わたしは、あのとき訊きたかった、作品の感想のようなものを読み解き、
今さらながらの満足を味わっているのよ。