あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

絶対正義への違和感

以下は個人的な雑感です。

 

[No War]に関して異論はないです。ただその絶対正義の向こう側に無関心でいてもいいのか?という問いです。

 

 

思えば2年くらい前に、仕事で真珠湾攻撃の裏付け資料にあたったとき「あれ?」と思ったところまで、つながるのかつながらないのか。

数十年前、日本は真珠湾攻撃をせざる得ないようアメリカから仕向けられた説があったはずなのだが、ネット上からはまったく拾えなかった。陸軍の暴走に海軍が押し切られた記述が主だったかな。ま、そういう解釈が今風なのね、とか思った。アメリカさんが不快な解釈はそりゃ消されるか、とか。

 

 

ウクライナ侵攻が始まって最初の違和感は、

ん? 地球上で今まで他に戦争はなかったっけ?というくらい圧倒的に盛り上がる[No War]で。ウクライナ、日本に世界にとってそんなに特別で親密な国だったの??

文化圏のグルーピングとか考えたけど、ぴんとこなかった。昏くて申し訳ない。 

 

違和感が「え?」になったのは、ウクライナの大統領がよれよれセーター?のまま公的の場で発言する映像で。うわ、被害者ヅラの演出、エグイわ。まあ、イメージ戦略も戦争のうちか。

 

錯綜するフェイクニュース。ロシアでの映像を、ウクライナの悲劇にしたてあげてるとかって?? 

え。国レベルでフェイクニュース、あり?

 

それでもしばらくは、

コロナで経済が破綻して、戦争に解決を持っていきたいのかなとか、考えてたのだけれど。ふむふむ、EUとのこともあるのか?とか。

 

その後、世界各国の、ロシア/プーチンの追い詰め方がまた、エグイでしょう? そういう逃げ道のない追い詰め方して、どこを落としどころにするのかしら。わからないわね。大丈夫なの? 中国あたりが仲立ちするの? できるの? 

 

 

もちろん、爆撃や移民や、「ウクライナがどんなひどいことになってるかキャンペーン」が嘘だとは思わないし、許せる状況ではない。遠慮のない盛り上がりに、日々、胸がキリキリする。

 

 

だけどさ。プーチンって、そんなに道理がわからない人だとは思わなかったんだけどなあ。老害だとしても、なんか、どうなんだろ?

 

 

そんなおり、友人のFBでこの記事を読んだ。

mainichi.jp

 

(有料記事は読んでないです)

 

 

で、この先は、わたしの中の飛躍なのだが、

 

侵攻したからの制裁ではなく、

ロシアを、プーチンを抹殺したいからの、

侵攻せざるえないように追い込んだ可能性は、ない?

 

これがね、真珠湾攻撃の前述の可能性の削除につながってたりする可能性は、あり? なし?

(口調が『真犯人フラグ』になっちゃったw)

 

 

ここまで考えてしまうと、もう、

一般市民に届く情報に、どんな操作が入っているか、わからない。

 

ウクライナがどんなひどいことになってるか」が、世界の半分のマジョリティ・キャンペーンとしか思えなくなる。

 

政府にも、マスコミにも、半信半疑で向き合わないと、と思ってしまう。

 

 

 

[No War]という絶対正義に踊らされるのは、まあ、気持ちいいよね、たぶん。

正義警察ってやつだ。

わたしはずっとなぜか違和感あって、どうして自分が違和感を持つのかわからなくて、考えて、

こんな考え方に行きついた。

これが正解だとは思っていない。10年後くらいにならなきゃ、わからないことだわ。

 

 

 

あとさ。

コロナ・ワクチンのアンチネタがSNSに流れるの、もしかして減った?

(過去、ミュートしてきたのが、急に効き始めたとか? まさか)

 

 

ミュージカルについて 5

芝居する身体が大きく三種類あるように思うと書きましたが、では演者も三種類のタイプに分類できるのかとなると、それはまた別です。

  

 

最近のわかりやすい例として。

『リトルプリンス』で芳雄さんは飛行士とキツネを演じられましたが、飛行士は②の身体の傾向、キツネは③の身体だったように感じられました。

人間と人外の演じ分けもあったのかしら。

(特にキツネに迷いがなくて、めっちゃ楽しかったです。床につく手は猫手だし、最後はタガー風のご挨拶してくださったし♪ あ。迷いながら探りながらの飛行士を演りながらだったから、余計に楽しめたのか?)

 

 

また。同じ役者さんでも、作品によって①だったり②だったりする方もいるので、こうなると演出家や共演者さんにもよるのかしら。

 

そうだわ、ある方はね、ある作品で、お稽古場では繊細な役作りをされてたのに、ゲネで関係者という観客を前にしたとたん、歌が変わってしまったの。無意識に、身体が期待に応えてしまったという感じだったわ。

もうひとつ、その方について言うと、芝居することにいろいろ迷ってらっしゃるよなぁとわたしには感じられるのですか、世の中的には、歌がとにかく上手だ流石だとしか評が出なくて、

観客も評論家も、もう少し人間としての役者としてのかの女を感じてあげられないのかなと思ったりします。

 

 

そうね。

わたしは、作品を味わうと同時に、もうひとつ別の次元で「人間」を観ている傾向があるのかもしれません。

 

――続けます。

 

 

こんな方もいました。

その作品では憎しみを込めた絶叫系の歌が多い役だったので、公演を重ねるごとにさすがに喉の負担が大きくなり、ある回で、大丈夫かな、次の音出せるかな、という瞬間、宝塚調の歌い方に切り替えられたのです。

喉の使う箇所が変わったのか、すっときれいな大音量の高音が出て、すごい、これには感動。

ただ残念なことに、その後、作品が変わっても、その方は宝塚調の歌い方しかなさらなくなってしまいました。

その場その場で身体が感じる、役としての想いを探りながらではなく、

お約束の様式美な歌い方。

となると、毎回、同じことの繰り返しとなるせいか、公演期間後半になると「役に飽きてる」様子も見えてきて…… 

(マジ つくづく いろいろと残念でした)

 

誤解のないように言いますが、宝塚卒の女優さんもいろいろなタイプがいらっしゃるので、上記はその方限定の出来事です。

 

 

うりゃケンくんや辰巳くんがミュージカルの中で、ときどきアイドル声で歌うのも、実はときどきうーんとなります。(ふぉ~ゆ~(箱推しです☆)がアイドルソング歌うのは、ギリ許せる。うーん、ギリだな。別の歌、聴いちゃってるしな)

ファンの方はどうなのかしら。聴きたいのかな。

 

 

 

などと実例をあげてみたのは、

もちろん、どう歌ってもその方の自由だけれど、ちゃんと認識して歌い分けましょうよ。観る側も、推しの一生懸命だけを応援/愛でるのではなく、演者としての奥深みを理解し、味わいましょうよ。

そうすると、いろんな理由が見えてきて、観劇がもう少し別な角度で楽しくなるのでは? 作品の説得力が変わるのでは?

と思うんだけどなあ。

 

 

つづく。

(で、具体的にそれはどなたですか?という質問は受け付けません!)

 

 

 

ミュージカルについて 4

前回、おたおたと、

現在の日本のミュージカルで「芝居するからだ」は大きく三種類にわけられると思います。

① 上手なお芝居をする。上手に歌う。正確に言葉を発する。上手にそれっぽく見せる。熱演する。観客に自分を魅力的に見せたい。芝居は観客に対する上手な嘘。

② 作品全体の中で必要とされる存在とバランスを理解する。役を演じるというより自分の感覚の再現。を、観客や共演者と共有する。芝居は自分に対する上手な嘘。

③ ①に準ずるからだなのだけれど、自分も観客もそれをごっこ遊びだと自覚して、双方そこを楽しむ。寓話的な作品にはこれが有効。もしかしたら歌舞伎や宝塚もこの系統。

などと書きましたが、そのあと大好きな役者さんがシンプルな表現をなさっているのをお見かけしました!

(疑問を言葉にすれば、思いがけない形で答えが与えられるものです)

 

 

うんうん。そういえばよかったのか!

 

ただ問題は、実感していないのにわかったつもりでいる人々もいたりすることで。

「役としてそこに存在する」もそうなんだけれど、若い役者さんとかがそう語っていても、うーんホントにわかってる?と感じることも多々あるわけですね。

 

言葉として知っているのと、

実感して体現できるのは違うし、

 

自転車の乗り方や逆上がりのように一度わかればわかるんだけど、扉が開いてわかるまでが、なかなか……

 

 

 

さて今日は③と①について書きます。

 

10年くらい前、toRマンション(オブジェクトシアターの大好きなユニット/未見でしたらぜひ一度!)の丸本さんと同席したときに伺ったお話です。

 

子どもたち相手のショウで、いわゆる「シムラ後ろ~!」をやってメッチャ盛り上がったときに気づいたそうです。

※「シムラ後ろ~」ドリフターズのネタで、後ろから近づくお化けなどに気づかない志村けんさんに、客席の子どもたちが知らせようと口々に叫ぶ台詞

子どもたちは、自分(丸本さん)が実は気づいているのに気づかないふりをしている(嘘をついてる)のをチャント承知している。実際にお化け役のデビ(当時のメンバーさん)が目の端にちらちらと見えているのを、自分はとぼけてズット見えてないふりをしていたわけだし。

子どもたちはおとながしらじらしく嘘をついてるそんなお約束(そんな身体)が楽しいんだと気づいたそうです。

(あれ? えっと、たしかそんな内容でした。記憶違いしてたらゴメンナサイ)

 

 

はい。演劇というのはそもそも嘘の塊です。お互いにそれを承知でお約束を楽しむ。

歌舞伎も宝塚も2.5次元ミュージカルも、考えればそういう文化で、日本人はそこがたまらなく好きなのかもしれません。

浅利さんは日常たまっていく澱をカタルシスで洗い流すのが演劇の役割・醍醐味だとおっしゃってました。

 

ただね、それを超えて宇宙の神秘、人間の奥底、己の中の琴線を揺さぶる真理との出会い、を体験できるのも演劇で。それを役者と観客が共有する空間を織り出すための方法論は、少し違うところにあるのだと思います。(もしかしたらわりと最近の演劇論・方法論なのかもしれません)

 

もちろん、お約束の芝居でも、突き詰め絞り上げた先にそういうシーンを作り出す役者さんはいらっしゃいますよ。勘九郎さんとか。

でもミュージカルではなかなか、そこまではって方が、多い。

そしてつまり、そこまで突き詰められない方が①に陥っているのでは?とわたしは感じます。まあ①で満足するお客が圧倒的に多いようだから、何が問題?と言われればそうなんだけれど。

 

繰り返しますが、ただわたしという観客には、物足りないのです。

うっわ、大好きなその作品を残念なレベルで終わらせないでほしいんだがなあ(繰り返しますけれど、世間的には大評判ですよ)と、ぽつんと取り残されるわたしを、

出来れば助けてほしいのよ。。。

 

 

(つづきます)

 

 

ミュージカルについて 3

ミュージカルの中での「芝居するからだ」について語る前に、まずわたしの価値観というか体質というかについて書こうと思います。

作品や演者に対するわたしの感想や評価が、一般のソレとズレがあるのはなぜ?と考えるうちに、原因として思い至ったことです。

 

わかりやすい表現を使うと、「わたしには嘘が通じません」。

 

直感みたいなものです。

うーん。ずっと、みんなもそうだと思っていたけど、どうやら特性らしい?

相手が嘘をついてるとき、これは嘘だよなあとわかるの。

 

 

で、日常ではね、嘘をつきたい理由を察して、観念して、話をあわせるとか、

ま、一生懸命にわたしに嘘をついてくれてる努力を評価しよう、とか。

(その嘘に悪意が隠されてるときは、一生、呪います)

 

直感的に「本質がわかる」って言い方でもいいけど、「わたしの感性は嘘を受け付けない」という言い方のほうが、このあとの説明がわかりやすいと思うので。

 

 

 

現在の日本のミュージカルで「芝居するからだ」は大きく三種類にわけられると思います。

① 上手なお芝居をする。上手に歌う。正確に言葉を発する。上手にそれっぽく見せる。熱演する。観客に自分を魅力的に見せたい。芝居は観客に対する上手な嘘。

② 作品全体の中で必要とされる存在とバランスを理解する。役を演じるというより自分の感覚の再現。を、観客や共演者と共有する。芝居は自分に対する上手な嘘。

③ ①に準ずるからだなのだけれど、自分も観客もそれをごっこ遊びだと自覚して、双方そこを楽しむ。寓話的な作品にはこれが有効。もしかしたら歌舞伎や宝塚もこの系統かしら。

 

ごめんなさい。文字にすると、まどろっこしいというか、もぞもぞするというか、的を得ないですね。もっとうまい言い方、ある? そのうち、具体例を書きますね。

 

もちろん、どんなお芝居をしようとその方の自由です。

 

ただ。

タイプ①の方の芝居や歌は「わたしの心」に絶望的に浸透しない。わたしの感覚ではもう、ミュージカルや演劇でないのです。

そして。上演中のミュージカル『笑う男』の初演と再演(わたしはこっちが好みです)の持つ説得力の違いは、そのあたりに起因します。

 

なのでわたしは、自分の楽しみのために、②のタイプの役者さんがミュージカル界にもっと増えてくれることを願い、これを書いています。(ちなみに演劇界隈にはすばらしく多いです)

 

(つづきます)

 

つけたし。

過去、このブログのコピペ等をほかのHPなどでご自分の文章の如く語るのをみかけたことがあります。けどね。

ここは、ものすごくコアな方たち(つまりご本人たち)がお読みになるので、そして間違いなくわたしの発した言葉と認識されるので、他所で、さも自分の考えです的にご利用にならないほうがよいと思いますよ。

この先の展開、具体例とか、たぶん手に負えなくなりますしね。

 

ミュージカルについて 2

昔は、本当にいろんな方たちと演劇について語れる時間があり、でも今はないので、自分の気づきをいろいろ確認できず、浮かぶ考えは自分の中でひとり、ぐるぐると出口を捜すばかりです。

 

ブログという文化も今さらな気がするけれど、逆に考えをボソボソ書き出すことで、やがてどこかに届くかも?と思いました。

 

ミュージカルの中で「芝居するからだ」について。

あまり語られてない気がするんだけど、どうなんでしょう。それっていかがなんですか?的な考え方には、ときどき出会う。あちこちの劇団の理念とか、まあ昔はそうだったかもしれないけれど、この現代においては研究不足じゃない? 観客に何を届けるためのあなたのからだかしら? が多いように思います。

 

(ま、もちろん正解はないんだけど)

 

 

先日観たミュージカル『笑う男』の再演では、演者それぞれの演劇プランが見事で、特に圭吾さんのバランス感覚がスゴくて、禅さんとがっつり向き合えてるちいちゃんも素晴らしかったし、ケンケンはちょっと注文あるけど、

あの方やこの方や、

これらのからだが公演の回数を重ねるうちに、今後どういう結晶に結びつくのか、うああ観たいあー観たいえーんなんで観られないんだよぉ! だったのですが、

わたしが今、書いとかないと、演劇評論家のだあれもそこを指摘しないんだろうな、とかね。だって日本のミュージカル界隈って、チケットが捌ける人材を推しと呼んでお祭りしてればOKみたいで、演劇人を名乗りながらも「芝居するとは何か」についてホント勉強してない方が多いです。

 

(あ。そのお祭りをショービズというんですよ、という考え方もあるのか?)

 

 

うん。芳雄さんは現場で感じたことを言語化してくれるほうかな。

祐一郎さんは言葉にならないあたりのことを、現場でときどきこっそり実験してます。『笑う男』のあれは事故?計算?とかw

あとね。ふぉ~ゆ~の辰巳くんに役の作り方を一回訊いてみたい。ってか、誰か分析して教えてほしい。

 

 

はい。以前は好き勝手にこのブログでいろいろ観劇の感想とかを書き散らしていましたが、ご縁があってミュージカルの稽古場リポート的な仕事を得て、わははは、すっかり忖度するようになりましたとさ。

あとまあ、自分がちょっと創る側になると、棚に上げてえらそーなこと言いづらい。そりゃ。

 

まあでも、スッカリそれらから離れて八ヶ岳でぼんやりと父親の在宅介護する身になって、あ介護ってのは自分のナーバスな部分をぼんやりさせて暮らしてないと大変なことになるので、だけど、もう一度原点?に戻って、ささやかな問いや考えを発するのも役目かな?とか。

 

(続きます)