NHKと朝日新聞は『正しく美しい日本語の最後の砦』であるというイメージが、わたしには強く刷り込まれている。 だから、聞き飛ばす読み飛ばすということが出来ず、都度立ち止まってしまう。
他のメディアではもっとひどい間違いと出会っても、やれやれと流してしまうのに。
おととい、朝日新聞.comの某コラムを読みながら、ぅきゃーっ♡ と壊れていたわたしが、最後の1行で、あれ?と醒めた。
「そんな人間も生き生きできるミュージカルって、本当に奇跡の環境ですね」
もちろんこれは間違いではありません。
でもどこかが不自然だと引っかかる、自分。
生き生き → 活き活き じゃないからか?
国語辞典を引くと生き生きが正で、活き活きは△。 ちなみに入力変換はどちらにも対応。 どうやらそういう問題ではないようだ。
字面が悪いのか?
「そんな人間もいきいきできるミュージカル」
「そんな人間もイキイキできるミュージカル」
うーん。
「そんな人間でも活き活きと存在することができるミュージカルという環境は、本当に奇跡ですね」
わたしにとって、日本語としての落ち着きどころは、この辺。
でもこれだと、息遣いとか雰囲気が消えてしまっている。
しかも可能性として、
「本当に奇跡の環境ですね」という言い切りであったことより
「本当に奇跡の環境ですよねぇ」と溜め息交じりに吐いてたんじゃない?とも。
インタビューという話し言葉を、記事という文字に書き起こす作業にも、多分作法があると思う。 (あるんでしょうか?)
たぶん、正確な日本語よりも息遣いの再現を目的として。
その瞬間の呼吸とか表情とか、言葉以外の空気が雄弁な相手の『音』だけを再現すれば良しって問題ではない一方、ではどこまで脚色していいものなのか。 難しいところだ。
文字数の制限の中で、いかに多くの情報を詰めるかという問題もあるだろうし。
わたしがブログを書く場合、話し言葉というより自分の意識の流れとしてのニュアンスを字面やレイアウトを使ってどこまで表現できるか?というこだわりがあると思う。
揺れている意識を書き留めるわけだから、正しい日本語では、無理。
だからこそ、自分で自分を書くことの意味。
先月だったか。
NHK・BSの紀行ものの番組でナレーター(声の調子から察するに、おそらくアナウンサー)が
「○○さんもついにトリュフをゲットしました」と端正に語っていた。
『ゲットする』がついに正しい日本語になったのか?
『手にいれました』よりも臨場感があるかな。
問題は収録中に発せられた言葉ではなく、何人かがチェックしているはずのナレーションとして書かれた言葉だということで、
誰もそれを不自然だと思わなかったというあたりだ。
言葉は生きているというのは承知のことだし。
世の中のおとなの大半が眉をしかめるギャル語が、実はわたしは大好きだ。 あんなに細やかなニュアンスを表現できるなんて、さすが日本の女の子だと思う。
それでも民放ニュースのアナウンサーのイントネーションが変だったり(ローカルとか若者語とか)、
フリーペーパーでひどい日本語が羅列されていたり(これは記事そのものも思い込みや言い切りが優先していた)、
『公共』としての言葉は、立場を変えつつあるのだろうか。
というより、
『公共』という意識そのものが、メディアによってイジられ壊されている。
いや。
そもそも日本人に『公共』という意識はあるのか。
隣近所、世間の眼、道徳などは壊滅し
ネット上での極端な評価とか、
自分のみの狭い(と自分では気付いていない根拠レスな)擬似価値観が主流となって。
『公共』が崩れていったら、対極としての『私的』も崩れていくのだろうか。
わからないわね。
まあ、
日本語や日本人の社会がどうなろうと、それも流れ。
で、「生き生き」ネタの元記事はこちら ↓ ↓ 劇場に観に来てね!
(はい。 結局、最後はコレです)
http://www.asahi.com./showbiz/stage/theater/TKY200905220222.html