さんざん迷った挙句、
大画面で体験したかったミシェル・オスロさんの映画を劇場に観にいくのはやめました。
↑『夜のとばりの物語-醒めない夢』
何故って、吹き替え版だったから。今後、原語上映があることを期待したいわ。
レンタルしておうちのTVで観た色彩溢れるアニメーション作品を、
原語(フランス語)+字幕で観たときと、
日本語吹き替え(台詞をちょっと編集してある)では、
驚くほどニュアンスが変わって、別作品と言えるくらい違う印象になっていて。
わたしは圧倒的に、フランス語版のぐにゃっとした不条理な雰囲気が好きだったからです。
人間という不完全な生き物に対する許容範囲の違い、みたいな感じ。
日本語版は、きちんと説明していることをスゴク目指していて、
だから逆に、わたしにはつまらなかったみたいデス。話し方もパターン化されてるしね。
先日友人と、何本かかれの作品を観ていたときも、
「ななな、何、この決着?」「大騒ぎした、あの設定は完全無視?」と戸惑い、爆笑して、
(設定を軽々と無視したあげく、アムール(恋愛)がすべてを解決するのさ、わかってないね♪と落とされたのっ)
でもこの世界が持っている心地よさには魅了されて。
すごいなフランス人。わたしたち日本人ってひょっとして損してるのか?という気分になったのでした。
(注・あくまでも、気分です)
えーと。
このあいだ(石)まるさんが出てたTV番組。アンリ・サルヴァドールの歌い方を手に入れる旅の。
さりげない溜め息のような日本語でも、息遣いのニュアンスと強さで、最後にはアンリの歌い方そのものだと老人を感涙させていた。
あのことを思うと、日本人や日本語でも表現はできるはず?と思うの。
あ。エスプリ――???
ぐだぐだとしたそのままを受け入れるって、奥が深いわ。自分の中で、何かを昇華させなければいけないみたい。
日本語や英語の文化だと、相手の欠点のせいにして修正を要求してしまいがちよね。
(や。日常で、相手のせいにして自分は絶対に折れないコトにかけては、フランス人がピカイチなようですがっ)
(ああ。だから、ありのままの相手を受けいれざるを得ないのか? 爆笑っ)
ついでに言うと、
以前、スペイン映画を観たら、スペイン人はもっとすごいようですからね。
殺人事件が起きても警察は介入せず(!)、
死体の始末(!)も気持ちの決着も自己責任(!!!)でしたし、
↑『ボルベール-帰郷-』
救いのない迷宮入り感は、ハリウッドや日本ではありえない設定でした。
↑『永遠のこどもたち』
というわけで、
フランス語で考え、しゃべっているはずのおなじみなキャラクターの理解を、
わたしたちはとても思い違いしてるのではないの?
話はそこに飛びます。
バルジャンやジャベールも(英語で歌っている映画は、だからまた別モノなはず)。
バリケードで再会したバルジャンのジャベールに対する感覚は、
深い理解や大きな許しという人間性ゆえというよりも、旦に相手の個性の容認だったのか?とか。
でも日本の観客が共感するための選択は要るわよね、とか。
でなゃ、わたしたちは今まで、何に感動して泣いてたんだよっ!?とか。
そしてゴーギャンも(ペルー育ちの)フランス人。
かれの持つユーモアや理屈が、そのへんから一気にほどけて見えてきた気がしたのでした。
(わたしはゴーギャンの描いた絵というより、画風の変遷にとても興味があるのですね)
三谷氏の『コンフィダント』という劇を観た方は思い当たるシュフネッケルさんというご友人。
その家族を描いたゴーギャンの絵があります。
家族たちにモデルになってもらい画家ふたりで写生した時間をそのまま描いてるようで、
どうみたって小心で恐妻家な男を、皮肉にあぶりだしちゃった感。
お金がなくて下宿させてもらっているのに、人のよい親切な友人を、
こんなふうに描いちゃうのかゴーギャンくん?
画家としての正直なセンスは素晴らしいが、人としてどうなの? と思っていたんだけどね。
(そして劇の役作りは、きっとこの絵がベースなんでしょうね)
もしや?と思う。
ゴーギャンは「や。これはただのユーモアだよ」とか言いそうだ。
そしてシュフネッケルさんも、かれのご家族も、
ちょこっとムッとしてからも、
「わー、そのまんまだねぇ」とあっけらかんと笑って、この絵を受け入れてたんじゃないのか?と。
そんな気がする。
フランス語だとね。
他人を理解しようとする「旅」は果てしない。だけどとても魅力的です。