あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『貴婦人の……』

えーと。
今年の夏の新作ウィーンミュージカル(東宝系)に『貴婦人の訪問』とありまして、事前の興味から、去年の暮れに原作戯曲とウィーン版のCDを手に入れました。(CD、去年の暮れはアマゾンでは買えなかったのにw)

さて。以下はたいていの方にはナンノコッチャな文章になると思われます。できるだけわかるように書きたいけど、解説をするわけではなく、あくまでもわたしの今の解釈をメモする感じです。

なんでって、
どうやらわたしは一読して、盛大な「誤読」をしてしまったらしいのだけれど、その誤読によるショックがすばらしすぎて、余韻にくらくら酔っ払っていて。自分の妄想に限りなく感動していて。真実とむきあいたくないwww
こんなんがミュージカルになるの?な原作なうえ、こりゃ商業演劇らしからぬ、無謀で画期的な実験作になるんじゃないかと鼻息を荒くしたものの、しょせんは誤読。

実際にミュージカルを観るまで限定の、妄想メモなのです。ノ( ̄▽ ̄)

なので、今しか、書けない。

  

そうだ。重要なお知らせ。ネタバレです。
観劇時にストーリーを楽しみたい方は読まないでネ。

 

 

 

 

 

原作は1955年に書かれて56年に初演された戯曲。資本主義をブラックに風刺した滑稽な狂想曲といった感です。妙な言い方だけど、昭和(20世紀?70年代?)な戯曲だなぁと、懐かしくてホコリっぽい匂いを感じました。
あらすじは ↑↑ 東宝さんのサイトをお読みください。

 

そして幕切れ、アルフレートは死体になります。

 

戯曲を読んでいる最中、わたしはずっと田山花袋の『重右衛門の最後』とル=グウィンの『オメラスから歩み去る人々(正確にはこの作家にこの短編を書かせた基となる哲学的な投げかけ)』との類似を意識してました。(←誤読の原因?)

なので、主人公の死によるテーマの完結を予感しつつ、でもミュージカルという究極のハッピー・エンターティンメントだよ。和解と予定調和なくして、どうやって成立させるんだろうと、どきどきと読み終えました。

うわ、死んだよ。しかも、思いっきり暗喩な持って行き方で殺してる。

 

参考までにいうと、(幾分うろ覚えですが)

『重右衛門の最後(1902)』というのは、村人たちが公共に迷惑な男を粛々と池に投げ込んで、イケシャアシャアと事故死として処理することで平和を得る様子が描かれ、

『オメラスから歩み去る人々(1974)』は、たったひとりの少女の犠牲のうえに大都市の繁栄が約束されているとき、人にはどんな選択ができるか?という話です。

 

 

さて。原作戯曲のこのエンディングで、ミュージカルは創れるのだろうか? 今の時代ではハッピーエンディングに書き直さないと収まらないんじゃないのか?(実際、ハリウッドで映画化されたときはそうしたらしい)

が、その瞬間にひらめいた誤読により、わたしの中ではアルフレートは死ななければならない存在だと気づかされたのでした。

 

それは、まぁ、アルフレート役が祐一郎さん(ジーザス役でデビュー)だというのもあるんだろうけれど、

  

『老貴婦人の訪問』のアルフレートはジーザスの暗喩だと、誤読しましたよ。わたしは。 

全人類の罪を背負って十字架にかけられたとされるジーザス(イエス・キリスト)ですが、そのひとりの男の犠牲と引き換えに生かされているはずの全人類は、
社会の平安のためには当然だったと考え、犠牲の責任を見てみぬふりをし(良心を保つためには忘れ)、贅沢を人並みな権利として主張・狂乱し、
だがそれでいいのか、人間として美しい生き方なのか?と、問うているような?

わたしにとってのキリスト教は文化的な教養でしかないので、切実ではなく、思考ゲームの興奮でしかないのですが。

 

むーん。演劇的にはすてきな設定だが、
ミュージカルにそこまで哲学を持ち込むなんて、無謀で画期的なとてつもない歴史的実験作になるんじゃないか、大丈夫なのか? どきどきどき……

 

 

ドイツ語のCDによると、ミュージカルはほぼ原作どおり進行してるように思われます。が、なにしろドイツ語だからよくわからない。
村人たちの狂乱としらじらしさと、クレールとアルフレートの幕切れのロマンティック?くらい??? 最後は、殺したのかな?も、不明。
アルフレート妻による、いい人っぽいアリアがある?(ミュージカル的だわぁ)
(・・〃)ゞ

 

 

 

先日、都合3回観た『クリ・コレⅡ』で、
かなめさま(クレール役)の歌われた某曲を聴きながら、というより、かなめさまの歌い方を気にしてたのですが、

1回目を聴いたときは、歌の持つ説得力に、演劇で言う「台詞をタテる」技術で歌ってるのかな?と、あとになって思いつき、
でも2・3回目では宝塚の男役さんテクで、かっこいいコンサート系な歌い方をしてらして、確認しそびれた。

 

むーん。アルフレート=ジーザスとすると、クレール=非情・万能な神 (わたしの脳内限定です!)の暗喩になるわけだが、
そしたらどんな歌い方が似合うんだろうなぁ、と。

 

が、
この解釈はわたしの誤読・妄想なので、実際の舞台でも答え合わせができない、せつなさよ。

  

 

 

もっとも。
ふたをあけたら、
いたぶられる祐一郎さんをみんなで楽しむ、ロマンティックで騒がしいミュージカルかもしれないし?

 

楽しみに、夏を待とう。

 

 

 

実験ミュージカル?と思わされる理由はまだあって、
公演スケジュールがトライアウトっぽい組み方なのですよ。
単に劇場を押さえられなかった結果かもしれないけど。

 

日本の観客は、このミュージカルを受け入れるかな?
まだ受け入れられそうな演劇に慣れてる系な観客は、東宝ミュージカルを観なさそうだよね。さて?