父が亡くなり、昨日26日、親族のみで見送りました。
通夜はなく、自宅(別荘)に神主さんに来ていただいた後、車を連ねて焼き場へ向かうという、北巨摩と東京の風習が入り混じったお葬式となりました。
感染症(特に山梨の昨今)のこともあり、人が集まり過ぎないよう、ご報告・ご案内は事後となりました。失礼に思われましたらお許しください。
お別れについて
遺骨は現在、八ヶ岳の家にあり、末日に三軒茶屋の乃里子のマンションに移します。そこから12月3日※前後(まだ未定です)の納骨まで、
父にお別れをご希望の方はご遠慮なくご訪問ください。わたしが留守をすることもありますので、いらっしゃる前にご一報いただけると助かります。
※10/28修正
(わたしの部屋ですが、3年間ほとんど留守をしていましたので、掃除や整頓があきれるほど行き届いておりませんが、特に先輩方、どうぞ大目にみてください)
ご都合が難しい場合、遠くからお気持ちを飛ばしてくださっても、父には届くと思います。ご無理のないようになさってください。
以下は葬儀当日の配布からです。
ご挨拶
八ヶ岳では空が青く澄み、風は鋭さを帯び、紅葉は色を深めています。
本日はご多用中にもかかわらず会葬くださり、ありがとうございます。
父 八郎は、八ヶ岳の山荘で元気に一人暮らししておりましたが(94歳の誕生日過ぎまで車の運転をこなしていました)、2020年末から体調や判断力が不安定になり、翌年2月の受診で、左脳に慢性的な硬膜下血腫、また前立腺肥大による腎不全を指摘されました。3月1日には肥大した前立腺が尿管を圧迫、尿を自力で排泄できなくなったことから、尿道にカテーテルを挿入した生活が始まりました。
3月半ばからは要介護3(寝たきりではないが、すべてに介助がなければ生活できない)の生活が始まりました。これに伴い、住民票も世田谷区から北杜市に移行しました。
毎日好きなものを自由に食べ、飲み、好きなことをして気ままに暮らしておりましたが、少しずつ少しずつできないことが増えていきました。
2023年9月初旬、在宅介護の限界であると主治医の指導が入り、ショートステイでお世話になっていた仁生園での長期ショートステイが始まりました。穏やかさとお騒がせが混じった生活をしていたようです。
10月21日はいつも通り朝食をとり、いつも通りうとうとしているうちに呼吸がおかしいと職員さんが気づき、主治医や東京にいた乃里子に連絡が入りました。乃里子は三軒茶屋駅近くにおり、そのまま電車に乗り、二駅先の渋谷で乗り換えているときに呼吸停止を知らされました。予測できない急変の中、あっという間に眠るように逝ってしまったようです。
乗り継ぎがうまくいかず、乃里子が父と対面できたのは夕方でした。業者さんにお手伝いいただき父を連れて山荘に返ってきた時、星が冴え冴えと美しかったです。
この日、一志は仕事で一日中身動きが取れず、駆け付けたのは翌朝でした。
生前、みなさまにはいろいろお世話になり、ありがとうございました。
おかげさまで父は豊かで幸せな人生を送れたと思います。
阿原八郎 履歴
1927年(昭和2年)1月8日 阿原才一郎、むめ の男ばかりの第八子として生まれる。
出生地 東京府北豊島郡板橋町大字下板橋(東京都板橋区下板橋)■番地
【住所】
1933年(昭和8年) 牛込区市ヶ谷台町に転居
1945年(昭和20年) 戦災で目黒区中目黒■丁目に転居
1954年(昭和29年) 世田谷区瀬田■丁目■番地(■丁目■番)に転居
1999年(平成11年)1月 八ヶ岳高原に山荘と天文台を建てる
以降、超新星の観測・家庭菜園・庭仕事の日々を過ごす
【学歴】
1944年(昭和19年)4月 東京物理学校(東京理科大学)入学
1947年(昭和22年)3月 同校理学部物理学科 卒業
【職歴】
1947年(昭和22年)4月 実践女子学園高等学校 就職
昭和29年度・32年度 高校卒業時担任、中学クラス担任を数回
1977年(昭和52年)4月 同校教頭に就任
1992年(平成4年)4月 実践女子学園中学校・高等学校校長に就任
1. 大学受験の進学校の導入
2. 校長の定年制の実施
1998年(平成10年)3月(71歳) 同校退職(勤続51年)
1999年(平成11年)4月 東横学園中学校・高等学校校長に就任
2002年(平成14年)3月 同校退職
【配偶者】
1958年(昭和33年)10月 田波八重子と入籍
1989年(平成元年)11月 八重子 没
【家族】
1959年(昭和34年)9月 長女乃里子誕生
1963年(昭和38年)7月 長男一志誕生
2021年(令和3年)3月 前立腺肥大による腎不全で入院。以後、山荘で療養生活に入る。
2023年(令和5年)10月21日 老衰のため死去。96歳没。