友人の本に、
思いは移ろっていくのだから、ブログとかに日々について書きとめておかなきゃ、とあり、
読みながらしみじみと、そうだよなあと思ってから、
うん。今日から書こう!と考えてから、
あれ。どれぐらい立つんだろうと。
さっき思った。小海線の車窓から富士山を見ながら。
近くに座る白髪のカップルは、どう考えてもご夫婦ではない。
はじめはずいぶんと奥さんに対して紳士で、旅行にはしゃいでるなと感じたのだが、ふと見えた女性の横顔の華やぎに、や、奥さんじゃないな。恋人?
しかも。ぎこちなさが残っているというか。初々しいというか。おふたりとも、わたしより年上に思われるが。
うーん。友人から一歩進んでの、初めてのふたり旅行、ってあたりか?
どうやら、わたしの視線を気にしてる風もあり、見せつけたい風?もあり、
窓に視線をそらしながら(というか、聞こえてくる会話以外、もともと目の端によぎる程度しか見てないのだがw)、どうか、いい時間を過ごしてくださいと願う。
人生を楽しんでほしい。袖すら触れ合っていない相手だがな。
今、山荘の外はマイナス6度だって。しんしんと静かだ。
さっきサッシを開けたら、星がスゴク美しかった。
書くことで、少し自分と向き合おう。
父や、自分の入院・手術についての文章が止まったのは、わかっている。
書き進めると、地方(山梨や長野)の医療崩壊を言及することになるからだ。責める気はないけれど、だから余計に書き方が難しい。
入院中に、父はしゃべれなくなったり、右手が使えなくなったりした。(退院して、それなりの生活をさせたら治った) 原因が何か、わたしがわかっていることを医師たちも知っているが、それ以上、話題にはしていない。
わたしが死にかけたのは、明らかに手術を失敗されたからだ。
でもまあ、2回の追い手術でどうにか生き返らせてくれたので、言及しなかった。ふらふらで頭が回らなかったのもあるかな。(で、退院してから、父の主治医にあれこれを確かめた)わたしがニコニコしていたので、担当医師はうまくごまかせたと思ったのだろうが、
2か月後の別手術前、看護師の問診時に、わたしの放った軽口でバレてることを病院側も知った。
というわけで、最初の主治医と廊下ですれ違って挨拶しても、向こうはおびえて強張っていたし、手術前に「信用してますのでよろしくおねがいしますネ」と明るく頭を下げても、新しい主治医には皮肉としか伝わらなかった。
え。裁判沙汰?
いやいや。そうでなくても、特に地方は、医者や看護師が少ないのだから、減らすような騒ぎは避けたいよ。
結果。わたしは生き延びたし、
父も、わたしの素晴らしい介護の結果、それから3年近く楽しい日々を送れたしね。
あとね。女子校で長く教師をしていた父は、それはそれは大勢の憧れの対象だったので、
そのファンタジーを守り通すのもわたしの役目だからね。
現実を文章にしづらい。
ほとぼりが冷めて、いつか書く日がくるのかな。あの壮絶な出来事とか。
わからないな。
3年間の介護は、なにやかやと乗り切っていて。
問題は、最後の一か月で。マジ、たいっっっっっっっへんっだった。
(恵まれてたのは、訪問医がホントウにいい先生で、かなり強引に父をホームにいれてくださったことで、逆に東京だったらあり得なかったのかもしれない)
あー。
父が亡くなったあと、わたしがどれだけ落胆するか、周り中が心配してくれてて、
それがとんでもなく肩透かしくらったのでは?と思うのだが。
わたしはすべて粛々とこなしているし、
というより、顔色も表情も別人のように活き活きしちゃってるしで。
いつか来ることと、前々から心づもりができてたからと説明してたわけだけど。
(ま。今後、どかんと来るかもしれない。母のときがそうたった)
ごめん。もうひとつある。
わたしは解放されたんだよね。認知の介護から。精神を病んだ父から。
そういう後ろめたさと、
そしてわたしに刻まれた父のイメージは、最終的な人格だから、かなり昏いものになっていたのよね。
でもそれも、移ろい昇華されていくものだったよ。
お葬式は親族だけで山梨で済ませたので、納骨までの期間、弔問のご案内をした。狭いマンションなので献花はご辞退しますとしたので、訪問も代表がいらっしゃることにしてくださったりで、
それでもバラバラと50人くらいいらして、長いと5時間くらいおしゃべりしていった。
(もう一度言うけど父は女子校の教師で、わたしも中・高は同窓なので、卒業生や先生と話が弾む)
それ以外にも、電話やお手紙をいただいたし。
お葬式という儀式が大切だと思い知ったのは、
それぞれのあふれる想いを全部、わたしがひとりで、ありがたく丁寧に、受け止めることになったからだった。
ほら。お葬式だったら、このあふれる想いをお互いに受け止めあってくれて、負担が分散されたわけよね。儀式にはやっぱりいろんな意味や役割があるのよ。
先日は、父が顧問をしていた軟式テニス班(現ソフトテニス部)が偲ぶ会を催してくださり、あ、これについては別に書くかな、60人くらいの参加で。
そうこうして。父への憧れや感謝や思い出のシャワーを浴びるうちに。
父が生徒さんたちを眺めて感じていたであろう愛しさも体感して。
次第に、父の欠点も長所に思えてきたのよね。
おとうさん。佳き人生、おめでとう! という気持ちになったんだよね。
想いは移ろう。いずれ、やさしいひかりをまとう。