あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

うつろう日々

友人の本に、

 

思いは移ろっていくのだから、ブログとかに日々について書きとめておかなきゃ、とあり、

読みながらしみじみと、そうだよなあと思ってから、

うん。今日から書こう!と考えてから、

 

あれ。どれぐらい立つんだろうと。

 

さっき思った。小海線の車窓から富士山を見ながら。

 

 

近くに座る白髪のカップルは、どう考えてもご夫婦ではない。

はじめはずいぶんと奥さんに対して紳士で、旅行にはしゃいでるなと感じたのだが、ふと見えた女性の横顔の華やぎに、や、奥さんじゃないな。恋人? 

しかも。ぎこちなさが残っているというか。初々しいというか。おふたりとも、わたしより年上に思われるが。

うーん。友人から一歩進んでの、初めてのふたり旅行、ってあたりか?

どうやら、わたしの視線を気にしてる風もあり、見せつけたい風?もあり、

窓に視線をそらしながら(というか、聞こえてくる会話以外、もともと目の端によぎる程度しか見てないのだがw)、どうか、いい時間を過ごしてくださいと願う。

 

人生を楽しんでほしい。袖すら触れ合っていない相手だがな。

 

 

今、山荘の外はマイナス6度だって。しんしんと静かだ。

さっきサッシを開けたら、星がスゴク美しかった。

 

書くことで、少し自分と向き合おう。

 

 

 

父や、自分の入院・手術についての文章が止まったのは、わかっている。

書き進めると、地方(山梨や長野)の医療崩壊を言及することになるからだ。責める気はないけれど、だから余計に書き方が難しい。

 

 

入院中に、父はしゃべれなくなったり、右手が使えなくなったりした。(退院して、それなりの生活をさせたら治った) 原因が何か、わたしがわかっていることを医師たちも知っているが、それ以上、話題にはしていない。

 

 

わたしが死にかけたのは、明らかに手術を失敗されたからだ。

でもまあ、2回の追い手術でどうにか生き返らせてくれたので、言及しなかった。ふらふらで頭が回らなかったのもあるかな。(で、退院してから、父の主治医にあれこれを確かめた)わたしがニコニコしていたので、担当医師はうまくごまかせたと思ったのだろうが、

2か月後の別手術前、看護師の問診時に、わたしの放った軽口でバレてることを病院側も知った。

 

というわけで、最初の主治医と廊下ですれ違って挨拶しても、向こうはおびえて強張っていたし、手術前に「信用してますのでよろしくおねがいしますネ」と明るく頭を下げても、新しい主治医には皮肉としか伝わらなかった。

 

え。裁判沙汰?

いやいや。そうでなくても、特に地方は、医者や看護師が少ないのだから、減らすような騒ぎは避けたいよ。

結果。わたしは生き延びたし、

父も、わたしの素晴らしい介護の結果、それから3年近く楽しい日々を送れたしね。

 

 

 

あとね。女子校で長く教師をしていた父は、それはそれは大勢の憧れの対象だったので、

そのファンタジーを守り通すのもわたしの役目だからね。

現実を文章にしづらい。

 

 

 

ほとぼりが冷めて、いつか書く日がくるのかな。あの壮絶な出来事とか。

 

 

わからないな。

 

 

 

3年間の介護は、なにやかやと乗り切っていて。

問題は、最後の一か月で。マジ、たいっっっっっっっへんっだった。

(恵まれてたのは、訪問医がホントウにいい先生で、かなり強引に父をホームにいれてくださったことで、逆に東京だったらあり得なかったのかもしれない)

 

 

あー。

 

父が亡くなったあと、わたしがどれだけ落胆するか、周り中が心配してくれてて、

それがとんでもなく肩透かしくらったのでは?と思うのだが。

わたしはすべて粛々とこなしているし、

というより、顔色も表情も別人のように活き活きしちゃってるしで。

 

いつか来ることと、前々から心づもりができてたからと説明してたわけだけど。

(ま。今後、どかんと来るかもしれない。母のときがそうたった)

 

 

ごめん。もうひとつある。

わたしは解放されたんだよね。認知の介護から。精神を病んだ父から。

 

そういう後ろめたさと、

 

そしてわたしに刻まれた父のイメージは、最終的な人格だから、かなり昏いものになっていたのよね。

 

でもそれも、移ろい昇華されていくものだったよ。

 

 

お葬式は親族だけで山梨で済ませたので、納骨までの期間、弔問のご案内をした。狭いマンションなので献花はご辞退しますとしたので、訪問も代表がいらっしゃることにしてくださったりで、

それでもバラバラと50人くらいいらして、長いと5時間くらいおしゃべりしていった。

(もう一度言うけど父は女子校の教師で、わたしも中・高は同窓なので、卒業生や先生と話が弾む)

それ以外にも、電話やお手紙をいただいたし。

 

お葬式という儀式が大切だと思い知ったのは、

それぞれのあふれる想いを全部、わたしがひとりで、ありがたく丁寧に、受け止めることになったからだった。

ほら。お葬式だったら、このあふれる想いをお互いに受け止めあってくれて、負担が分散されたわけよね。儀式にはやっぱりいろんな意味や役割があるのよ。

 

先日は、父が顧問をしていた軟式テニス班(現ソフトテニス部)が偲ぶ会を催してくださり、あ、これについては別に書くかな、60人くらいの参加で。

 

 

そうこうして。父への憧れや感謝や思い出のシャワーを浴びるうちに。

父が生徒さんたちを眺めて感じていたであろう愛しさも体感して。

 

次第に、父の欠点も長所に思えてきたのよね。

おとうさん。佳き人生、おめでとう! という気持ちになったんだよね。

 

 

想いは移ろう。いずれ、やさしいひかりをまとう。