前回、おたおたと、
現在の日本のミュージカルで「芝居するからだ」は大きく三種類にわけられると思います。
① 上手なお芝居をする。上手に歌う。正確に言葉を発する。上手にそれっぽく見せる。熱演する。観客に自分を魅力的に見せたい。芝居は観客に対する上手な嘘。
② 作品全体の中で必要とされる存在とバランスを理解する。役を演じるというより自分の感覚の再現。を、観客や共演者と共有する。芝居は自分に対する上手な嘘。
③ ①に準ずるからだなのだけれど、自分も観客もそれをごっこ遊びだと自覚して、双方そこを楽しむ。寓話的な作品にはこれが有効。もしかしたら歌舞伎や宝塚もこの系統。
などと書きましたが、そのあと大好きな役者さんがシンプルな表現をなさっているのをお見かけしました!
(疑問を言葉にすれば、思いがけない形で答えが与えられるものです)
台詞は「どう言うか」じゃなくて「どう聞くか」なんだよな。「何をどう見せるか」じゃなく「何をどう感じるか」。感じている様を晒す。後は観客に委ねる。
— 山西惇 (@8024atc) February 20, 2022
自戒を込めて。
うんうん。そういえばよかったのか!
ただ問題は、実感していないのにわかったつもりでいる人々もいたりすることで。
「役としてそこに存在する」もそうなんだけれど、若い役者さんとかがそう語っていても、うーんホントにわかってる?と感じることも多々あるわけですね。
言葉として知っているのと、
実感して体現できるのは違うし、
自転車の乗り方や逆上がりのように一度わかればわかるんだけど、扉が開いてわかるまでが、なかなか……
さて今日は③と①について書きます。
10年くらい前、toRマンション(オブジェクトシアターの大好きなユニット/未見でしたらぜひ一度!)の丸本さんと同席したときに伺ったお話です。
子どもたち相手のショウで、いわゆる「シムラ後ろ~!」をやってメッチャ盛り上がったときに気づいたそうです。
※「シムラ後ろ~」ドリフターズのネタで、後ろから近づくお化けなどに気づかない志村けんさんに、客席の子どもたちが知らせようと口々に叫ぶ台詞
子どもたちは、自分(丸本さん)が実は気づいているのに気づかないふりをしている(嘘をついてる)のをチャント承知している。実際にお化け役のデビ(当時のメンバーさん)が目の端にちらちらと見えているのを、自分はとぼけてズット見えてないふりをしていたわけだし。
子どもたちはおとながしらじらしく嘘をついてるそんなお約束(そんな身体)が楽しいんだと気づいたそうです。
(あれ? えっと、たしかそんな内容でした。記憶違いしてたらゴメンナサイ)
はい。演劇というのはそもそも嘘の塊です。お互いにそれを承知でお約束を楽しむ。
歌舞伎も宝塚も2.5次元ミュージカルも、考えればそういう文化で、日本人はそこがたまらなく好きなのかもしれません。
浅利さんは日常たまっていく澱をカタルシスで洗い流すのが演劇の役割・醍醐味だとおっしゃってました。
ただね、それを超えて宇宙の神秘、人間の奥底、己の中の琴線を揺さぶる真理との出会い、を体験できるのも演劇で。それを役者と観客が共有する空間を織り出すための方法論は、少し違うところにあるのだと思います。(もしかしたらわりと最近の演劇論・方法論なのかもしれません)
もちろん、お約束の芝居でも、突き詰め絞り上げた先にそういうシーンを作り出す役者さんはいらっしゃいますよ。勘九郎さんとか。
でもミュージカルではなかなか、そこまではって方が、多い。
そしてつまり、そこまで突き詰められない方が①に陥っているのでは?とわたしは感じます。まあ①で満足するお客が圧倒的に多いようだから、何が問題?と言われればそうなんだけれど。
繰り返しますが、ただわたしという観客には、物足りないのです。
うっわ、大好きなその作品を残念なレベルで終わらせないでほしいんだがなあ(繰り返しますけれど、世間的には大評判ですよ)と、ぽつんと取り残されるわたしを、
出来れば助けてほしいのよ。。。
(つづきます)