数日前に考えたこと、数日たつと忘れてる。ひゃあ。
まず。なんとなく、ドリフターズの8時だよ!を思い出してた。なにしろ半世紀近く前の小学生だったころなので。なんであんなにゲラゲラ笑ってたんだろう?というウロ覚え。(ちなみに荒井注さんバージョン世代です)
ついでに、
数年前に居合わせた居酒屋で、toRのまるちゃんが話してたことも思い出す。いわゆる「志村! うしろ~!」みたいなことを小学生たちを前に、舞台でやったことがあって、めちゃ気持ちよかったんだって。そのとき感じたのは、小学生たちが大笑いしてるのは、「タイミングをはずして後ろにいるおばけに気づかない」という設定ではなくて、「大のおとながぬけぬけと、気づかないふりという見え透いた嘘をついてる」ことを面白がってると感じたんだって。(←文責わたし)
確かに自分の視線の端にはおばけ役がちらちらと見えてたので、どう演じたところで見えないふりをしている(嘘をついてる)からだだったと思うし、子どもたちは絶対にその嘘を見透かし、見逃さない。ただ肝心なのは、もとの設定より、たぶんその大嘘に対する笑いのほうが、みんなは大好きだと直感したこと。うんぬん。(←これも文責わたし)
で。ドリフのコントの多重構造を思い出す。
コントの設定。
そのコントがうまくいかないと、長さんが腹を立てる。役としてやりなおさせる。
そこにときどき、役者が素であるような愚痴が混じる。
もっと素に近くなって、客席に話しかけ同意を求める。
ショーが終わると、全員が礼儀正しいいい人になって、また来週!となる。
建て前やきれいごと(台本)が少しずつ、どんどんと、壊れていき、塩梅よく本音や本人が見え隠れしていくという、カオスのようにみせながら実は整理され計算されてたのかなという、つくりごと。というより約束事?
そのすべてが嘘でしたとわかっている、安心。
うん。言い方を変えると、
芝居の中の役という仮面、役を演じている役者という仮面、その場にいる本人のウケ狙いの本音という仮面、そしてファンにみせる仕様の顔。
その演じ分けにより、約束や決まり事がどんど崩れていくのが、めちゃ快感だったのかな、とか。
演じ分け、というより、そういう台本だっただけなのか?
あ。そういうのは、演劇的には特殊な笑いだとおっしゃるかもしれませんが、『ゴドー』は不条理である前に、そっちを目指していると思いますよ。
とにかく、観客はその、人間のうらおもてや、上手っぽい本音もどきを、多重構造を、楽しいと感じるのか。
それから。
ミュージカルの人気俳優さんの中には、わたしの苦手なタイプがあって、
作品や観客に献身するというよりも、歌が上手なワタシを褒めて!みたいな方ね。
でも、
「上手に役(嘘)を演じている役者」に熱狂・満足したいファンもいらっしゃるってことなのかな。と妙な納得もあり。
と考えが行きついて、次にその演じ分け?について考え始め。
思いついたイメージのよりどころは、落語でした。(←ほとんど知らないんですけどね)
昔の名人と呼ばれたどなたかの芸では、ほぼ演じ分けがなかったんだよな~ 正面、斜め上手、斜め下手に顔をむけるだけで、ナレーターと隠居と熊さんの世界にずるずると引き込まれ、一緒に泣き笑いしてた。
あれは、どういう芸だったんだろう??? 演じるってなんなんだ?
以前、
まず演者と見物に共通認識や価値観があって、それが壊れたとき、笑いは生まれるのかなと考えたことがあって。
(だから書き手としては、最初の共通認識や価値観の設定に工夫がいるなとか)
まあこれは、その、もう少し奥の手触り。たぶん。