いつだったか、気まぐれに清春白樺美術館を訪れたとき、
実はそれまで、「白樺派」について完全に無知で無関心だったのだが、
ロダンやルオーの小品や、白樺派の文豪たちの原稿用紙を見ながらふと、
日本人が芸術を、苦悩とか清貧とかという「ファッション」で括りたがる原点は
もしかしたら、ここですか?と感じた。
ロダンというのは、わたしの中では恐妻家で女たらしの権力者というイメージで。
ルオーの素朴なタッチには、精神性とか言われてもぴんと来なくて。
それからこの間観た、ゴッホもだな。
苦悩や清貧を突き抜けた先の、人間としてのずるさとか日常とかの先の、
画家たちの中の、
輝く喜びや楽しさを、表現の中の煌きとして感じてて。
だからアートを、苦悩とか清貧とかという「ファッション」として捉えることに、嫌悪さえあって。
さっき、『モンパルナスの灯』という古いフランス映画をDVDで観てて、
(すべての人の顔のつくりと表情が、とても美しい!)
少し乱暴な括りになるけれど、ここでも、苦悩とか清貧とかという「ファッション」としての芸術が描かれているので、
白樺派だけのせいでもないか、とも思ったが。
(それからWSSのバルコニーシーンの原点があったよ)
わたしが「白樺派」に漠然と感じたことの裏づけはないかなと、検索をかけてみました。
んん、評論とか講義とかは、読む元気ないなぁ。(←こらこらこら)
ただ、
文筆家によって美術が日本に紹介された弊害、みたいな文章を拾って、
スゴク納得。
そしてその前後に、
「白樺派」やその他の派生や流れの説明があったんだけれど、
今のサブ・カルチャーの意識の流れが、そのままあてはまっていて、仰天でした。
わたしたちは、つくづく、新しいものなど作っていない。
知らないまま、ただ過去を繰り返しているだけ。
と言う一方で。
先日、話の流れで、80年代に描かれた伝説のまんが(内田善美サン)を友人が貸してくれたのですが。
インターネットのなかった時代の、
個人のスクラップと探し当てた本と、友人との情報交換が主な資料だった(レンタルビデオが資料としてスゴク画期的だったんだ)時代の、
必死の「考察」の匂いが懐かしく。 自分の内面との会話の深さと、迷路。
日本語の単語のひとつひとつが持つニュアンスすら、今とは微妙に違うことを知り、ガクゼンとする。
朧で狭くて、深い。 この匂い。 これも昭和、なのか?
わたしたちはもう、この時代の精神/内面の手触りには戻れないんだ、と思い。
(うーん。 現在の生活にネットが絡んでない方は、どうなんだろう)
なくしていくもの、取り返せないもの、整理され分析され細分化されていく精神構造も、
感じるのでした。
んんんんん!
そういえば、高校生の頃のわたし、
モノゴトは上方に向かう螺旋に繰り返されるって結論してたことを思い出した。
うぁっ。 本日の落としどころはソコっすかぁ???