事業仕分けで文化関連予算(助成金)を切られることに対する署名運動のお願いが、
友人のブログにありました。
世の中はもう、基地とか特例会見とか、事業仕分けの次の話題に移らされていて。
確かに危険は危険なんだけれど。
だったら、昨日のトークセッションの話題のひとつは、もう少し違う展開にしたほうがよかったのか?とか、
ああ、だから坂手さんはあのとき、あーいう言い方をされたのか、とか。
考えつつ。
わたしは署名運動には参加しません。
貧乏な実家からの送金を打ち切られて、
外国では違うんだからね!とか叫びながら、ありきたりな理由で実家に署名嘆願して、
送金が復活するとは、思えない。
署名運動してる方々は、そう思っているんでしょうか?
他のおうちでは、スパコンを諦めさせられてんだよ?
なので、
ではどうすれば自分の経済が成り立つのか?と自分で考え、動くのが、オトナなんじゃないのとか思ってしまう。
少なくとも、もう少し社会性や現代的な説得力を持たせた言い訳を語れないのか?
マーケティングの勉強しろよ。
他ではなく、自分に優先的に投資させるための方法論、考えろよ。
うん。
昨日のトーク・セッションを通して、演劇の世界がすっごくヤバいなと感じたのは。 内容とかとは全くの無関係に。
動員。 と、演劇人口。
今回、
司会のふたりの腕が素晴らしくて、いい感じのトーク・セッションだったんだよ。
なのに客席がさびしくて、申し訳なかった。
雑務に振り回されて、自分も動員することを舐めてたと反省。
動員(経済)を視野に入れない演劇活動は、自慰でしかない。
(トーク・セッションは入場無料だったんだが)
で。
どうすれば人を動かせたのだろうと、身近なあたりから考え始めて。
「今の東京の人間」にとって、舞台を観るために靴を履かせるって、どこをくすぐればいいのか?とか。
考えるほど、
自分が劇団四季で動員活動をしていた30年前より、
観客層が干からびてコチコチになっている現状が、皮膚感覚で迫ってきた。
世の中の不景気のせいで、アタリマエに考えすぎてたかもしれない。
マイノリティな自慰活動に、公的資金を出させる理由を、ちゃんと成立させなくては。
わたしの中に、ひとつの切り口があることはあるんだ。
演劇というより、もう少し大きな括りになるけれど。
それに説得力を持たせて、何をどうすればいいのか。
そのためのささやかな1歩は、何なのか。
……考えてる……。
先日、
「最近の(劇作家としての)あなたの社会的なテーマは何?」と質問をされて、
ワーキング・プアだと答えたら、数冊の本のタイトルを教えてもらった。
それでさっきから、辺見庸の『しのびよる破局』を読んでいるのだが、
あ。 やっぱり今の社会についてそう考えるよね!ってことの合間に、真逆な意見が挟み込まれていて、都度、なんでそっちになる?と考えてしまうので。
10ページくらいで息が切れた。
(まぁ。 それで今、ブログ書いてんだ (>_<) )
読んでるあたりは、
人間の存在が携帯やPCの端末と化している、との警鐘文。
いやわたしは、生き物としての人間は、とっくにヤバイッと気付いていると思うのね。
ただ、その代替品として他の魅力と出会えないから、
切り替えが面倒で、勇気がいるから、正当化して、しがみついてるだけだとね。 思うんだけど。 違うのかな。
さて、
この先には何が書いてあるのか。 本の中を彷徨ってきます。