小劇場系が公演中に、感想ツイートをリツイートするのはまぁ当然のこととして。
でも「ネタバレ」まで流しちゃうのはいかがなんでしょうね。
ブログとかと違って、勘弁してよ!と思う間もなく単語は目に入ってしまうわけで。
昨日観た芝居の、最初に出てくる謎(だったはず)の小道具、クライマックスの泣きどころのネタばらしを、前日にされてしまった。
とても楽しみにしていた舞台だった。
麦さんと浜さんが人情喜劇(歌舞伎台本)でおばあちゃんを演じたらしいよと噂を聞き、再演がありそうだというので劇団のツイッターをフォローして情報を待ち、チケットを買った。
そんな流れだから、前述の悲劇に見舞われたわけだケド。
思えばもぎりの時点から、身内以外の客には無神経な態度である予感はあった。日舞の発表会ロビーとかの、あの雰囲気。
落ち着け。好意的になれよ自分。と最前列の座席に座りながら思う。
ああやっぱりなぁ。劇団の持つカラーは舞台の傾向も象徴してた。若いコたちの一生懸命に、落ち着け。好意的になれよ自分。と言い聞かせながら、観る。
途中からはもう、
これは麦さんが、自分のやりたいことをやるための舞台、そのための劇団なんだから目くじら立てることじゃないよね、と考える。
そうなんだよなあ。客の心を別世界に案内するための舞台じゃないから、超名優がふたりも居ながらも、いらいらするんだ。自分がうれしいための芸術イコール他人の感動、であることは、とてもとても難しい。
この作品も。女性が演じたら女優の人生も投影されて、違う味わいがかもされたんだろうなあ。と感じる。自身が長年連れ添った男への献身とうっぷんを、一瞬で晴らす、昔風の日本女性としての快感と共感。
浜さんは頑張ってたけど、奥さまに恵まれた方だし、そんな情緒には届いてなかったような。
音楽が素晴らしくてね。アコースティックギター2本と邦楽打楽器(!)で、ジャジーに江戸時代を支えていました。鬼平+ジプシーキングスのあの路線。
小鼓が女の情念みたいに流れ、聴こえて、しばし感情がくぎ付けに。
というわけで。
本編よりアフタートークに萌えました。すみませぬ。
邦楽打楽器の西川啓光さんと、麦さんと浜さん。(おふたりとも在団中から知的トークで鳴らしてました)
(ちなみに、このおふたりが昔、劇団四季でしたと言うと、客席がほぅとなった。ええっ? そうなんだ。。。。。。 まぁ、わたしは麦さんと書いてるけど、蜷川さんやディズニーの壌さんのほうが、通りはよい)
西川さんは、JC=Sの初演ジャポネスクや「象」の道行きシーンとかで四季にかかわってらしたそうです。と聞くと、もう他人には思えない~
能楽だと楽器が専門化されるけど歌舞伎では一通りをこなせなきゃいけないとか、小鼓は唯一、下から上へと叩く打楽器であるとか、
わ~ めっちゃキラキラしながらお話を聞いてしまう~
(あとから検索したら、ツイッターとブログはあるけど休眠中で。FBのお友だち申請、なんてできないし。活動フォローのご縁はないようだった)
麦さんが力説なさるに、
日本人は演劇の勉強というとロンドンに行くけど、RSCのスタッフに言わせれば自国に素晴らしい文化があるのに何故?と不思議がられると。
江戸時代(今でもじゃないかと思う)、東京周辺は世界一の劇場数を誇っていた。
だからご自分は日本の古典(近代?)を大切にしたいし、そのためのNPO法人としての劇団である。だから寄付歓迎、物販よろしく。
はい。お土産買いましたよ。
(そういえば昔、ジョージさんからNPO法人として劇団立ち上げたら言われたんだけどと、みほさんから相談されたことを思い出した。で、ざっくり調べて。定期的に義務として公演をうち続けてたら生活がめちゃくちゃになるよね、と足がすくんだ。ふたりともそこまでの覚悟は持てなかったのよw)
わたしが思うのは、
日本演劇の過去も素晴らしいけれど、現在進行形の人たちはその上を模索してる。今、生きてる人たちの心を動かすための技術を、磨いている。
ただ日本の演劇界の滞りぶりの原因は、住み分けの徹底で。自分ら以外のバフォーマンスを、自分らが最高じゃなかったと否定されるのが怖くてか、狭い視野丸出しに全否定はしても、勉強しないからなあ。
しょせん、村社会。ねえ劇団四季。
わたしのように、四季と東宝と日本劇作家協会と小劇場と大道芸とコンテンポラリーダンスに友人がいて、多少はかかわってるの、たぶん珍しいよね。そういうお友だち、ほしいんだけど出会ったことない。
ボーダーを超えるの、飛び込んでいくの、別に難しくないんだけどなあ。
ものをつくりたい側の人間なら、ときどきは自己否定されること、すごくキツイけど大切だよねえ。でも日本人はここが苦手なんだよなあ。