あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

在宅介護はじめました-10

父の症状は。

脳内血腫もありますが、基本、慢性腎不全からくる尿毒素の脳内蓄積が原因と考えられると診断されました。認知ではないそうです。

 

なので、本人と家族の努力で、状況の改善が目指せると、わたしは解釈しました。おー。

 

 

現在の治療は、尿管にカテーテルを通して随時バルーンに排尿しているだけです。月に二度、往診の際に増血剤を注射してもらいます。

排便も自力。4日以上ないときは、処方してもらった「便をやわらかくする」薬を飲ませますが、ほぼ飲みません。

体制は看取り介護。

父が毎日を、ふんわりと幸せに暮らせるか?がわたしの目標です。

 

 

入院中にいつの間にか右手がマヒしてて、帰宅後、いわゆる犬食いする様子がショックで(病院ではどうしてたんだか)。

歩くのも辛そうなので、ベッド横に椅子を持ってきてテーブルとし。

左手だけで食べられるように、サンドイッチやおにぎりを中心に切り替えて。

部屋には小さく音楽を流し、

わたしは床に座り。

そうして。ふたりで穏やかな朝食をとりながら、

これがいいんだ。守らなければいけないのは、この時間なのだと決心しました。あれから一か月半、か。

 

 

これはいつか来ることだと自覚していたとはいえ、わたしは案外、日々をスムーズに受け入れた自分に、軽く驚きもします。

 

で思い至ったのは、この介護は創作に似ているのかもしれないということ。

 

途方に暮れる壁の前で、出来ることを少しずつ重ね、出来ないことを工夫し、少しずつ切り崩していく感じや、

先の見えないストレスの重みの苦しさ。

垣間見えるわずかな希望に方向を託す。などが、

なんとなく創作しているときのスタンスに似ている気がしたのです。

 

つまり、わたしには慣れ親しんだ状況なのかもしれません。

 

でも世の中で、介護はクリエイションだと発言したら、反発を感じる方は多くいるのだろうなとも思います。

 

 

 

 

今、自分はなにもアウトプットしていません。

ブログを書くことすら精神は要求していないけれど、日々の想いは書き留めておいたほうがいい気がするので(いつか創作に役立つのかしら)、努力したいぐらいです。

インプットは、主にTVとネットと読書から。

 

田舎暮らしでも、録画機能で観たい番組はストックできるし(WOWOW契約しといてよかった!)、

欲しいものはネットで買いたい放題だし(気を付けないとamazonへの支払いが大変なことになりそうだわ)。

SNSでは、リアルな友人たちと軽く会話できるし。

そして月に一度くらいは東京に戻り、舞台を観られるし。

 

はい。わたしはちゃんと、自分が受け入れられる暮らし方になるようデザインしました。たぶんこれは、わたしの努力です。

 

あとはこれから、何ができるか。

 

 

あ。

先日、電気屋さんからお知らせメールがあったので、PS5(ゲーム機)の抽選に応募したんだったわ。これが当たったら生活が崩壊するかな。あれ? (抽選には当たらない人生なので、つかの間の夢を楽しみます)

 

在宅介護はじめました-9

月が変わって、GWも終わりました。

 

父のからだはずいぶん元の状態に戻ってきました。

昨日は歩行器ではなく杖で、買い物についてきました。(スーパーの中ではカートを押してくれてる)これで1300歩。

先日は植物園へ行って散歩してからの買い物で、計3000歩でした。散歩の際はわたしが車椅子を転がしてついていきます。疲れたらその場で座るために。

ご近所を散歩していて疲れて一度、車椅子に移ったのだけれど、八ヶ岳の裾野は坂ばかりですから、帰り道は下り坂。車椅子のセオリーで進行が逆向き(後ろ歩き)になるわけで、それが怖かったみたい。そのあと、家から10メートルのところでいったん座って休憩したのですが(あと少しなんだから歩いてよ~と内心思ったが、せめて車椅子で運ばせてよ~と思ったが、スゴク思ったが、はい、言葉にはしてません)、そこからすら自分で歩くと言ってききませんでした。はいはい。

 

昨日から、家の中でも杖に切り替えてみました。歩行器だと尿をとるためのカテーテルとよく絡まっていたのですが(なんで絡まる?)、とりあえずそのストレスからは解放されたようです。

 

入院前に普通にできてたことが退院時になんでできなくなってんだか!と、こぼした時に。在宅医療の主治医の先生から、94歳まで生きてる男はほぼいないんだから、できないことがたくさんあったアタリマエよ!と言っていただき。

ですよね。そりゃそうだわ。

できることを数えて、感謝しようと、切り替えました。

 

 

着替えて、外に出ることを増やしたのは、軽い運動と一緒に、頭の中も少し動き出す感覚があるからです。

わからなくなって途方に暮れることが多いのは相変わらずなのですが、会話が会話らしくなってきたし、いろんな心配事(支払いとか契約とか、今の自分のこの状態は正しいのか?とか)も、それなりに抱えるようになってきて。

 

 

これ。この部分。

 

 

あのね。わたしの中にはずっと葛藤がありましたよ。

一時(入院時)は無反応で呆けたままな状態にまでなり、それからいろんな手段で脳の活性を目指して(入院中でも、これは家族の役割のようですね。あ、これは皮肉ですよ)、

すると。

わけのわかんないことを主張しだしたりし始めるわけですよ。本人の中では理路整然としてるらしいけど、いやいやいや違うからね的なことを。

それを論破するのが(一応、わたしは静かに粘って論破します)、そりゃ大変で面倒で。納得しないで父が癇癪起こすときもあるし。けんかにもなるし。

 

これがね、すっごく大変なのです。

 

そうなると、脳の活性化って、「本人にとって幸せなのか?(←これがわたしにとっての大命題)」とも考えるんですね。ぼーっと生きてるほうが、実は幸せなんじゃない? せっかく神さまがくれたニルヴァーナ(涅槃)な境地を、わたしがおせっかいにも邪魔しているのは、大いなる思い上がりなんじゃないの?

 

現在では、悩むこともその人の権利だから、可能なかぎり脳の活性を目指そうという考え方をしています。これだって、この先、考えを変えるかもしれないわ。

 

 

在宅介護はじめました-8

今日は満月だとSNS上でにぎやかですが、大泉は曇りです。お写真をあげてくださった方々ありがとう。

さっきベランダに出てみたら、がささささっと、まっ暗闇の中を何か生き物が走り去りました。キジにしては大きく、シカにしては小さい気配。なんだったのかな。

 

 

父の頭の中は相変わらず、つながったりバラけていたり、です。退院直後、不自由になってた右手は、なんと!おはしをもてるまでに復活!しました。

一方で、夜中に起き出した後、ベッドの前でどうやって寝ればいいのかわからず、立ち尽くしていたりもします。わからん。

 

食事はよく食べます。

毎日のヤクルト、皮付きりんご+ヨーグルト、みつ豆(寒天)のおかげでか、薬がなくても一日おきに排便できるようになりました。

(わたしを褒めて!)

 

 

今日は何か月ぶりかで、床屋さんに行きましたよ。

父の行きつけは予約制のない床屋さんで、ダメ元で金曜日に行ってみたら(父は久しぶりパジャマではない服を着て、少しシャンとしました)1時間待ちということで。今の父にはキツイので、また来ますと去りかけたら、追いかけてきてくださって、直前に電話くれたら空けて待ってますからとご親切を言っていただいたのです。(父のよぼよぼぶりに、ありゃ待てるはずないと判断してくださったのだと思います)

 

お店の前のコンビニに車を止めて、お店までは歩行器。椅子に座ってからは自立する杖におしっこ袋をぶらさげて。

ご主人に「どうしちゃったのょ」と明るく話しかけられて、「いやぁ」と答える父はうれしそうで、男同士の会話のよさってあるよなと思いながら、人とのつながりが父の脳細胞に与える影響に感謝しました。

 

で、わたしは父を置いて、買い物に。

 

おかげさまで。父、さっぱりとして普通の人間らしくなりました。あー大切だわ。

で、今まで気づかなかったけど、耳のお掃除をしてもらえて(床屋さんってありがたいわね)、久しぶりなので実はかなり痛かったようなのですが、そうか、耳の掃除なんてチットモ思いつかなかったわ。

 

 

というわけで、要介護レベル3でも床屋さんにいくのは大切!の巻でした。

 

 

 

 

過去をいろいろ書いておきたいけど、現実逃避したいらしいわたしは、とにかく眠いのよ~!

なかなかブログをかけません。

 

在宅介護はじめました-7 入院-1

入院中の様子を書くのを躊躇している。

 

コロナ禍による医療崩壊のとばっちりを受けたのだとは思う。それとまあ、地方医療の意識の格差?

誰かを悪くいうつもりはなく、あったことをフラットに書こうと思うけれど、あっけにとられたことや、軽い怒りが、いくつもあったのは、事実だ。

 

 

 

医療崩壊」が具体的にどんなことなのか、マスコミはもっと取り上げればいいのに。と思う。なぜ、話題にしないのだろう。

ナニカを責めるためでなく、事実を公にして、みんなで考えるために。

父のような、ある意味「被害」は、きっとほかにもたくさんあるはず。

 

 

最初は、東京の病院に連れていく選択も考えた。わたしの生活の拠点が東京なのだから、そのほうがいろいろと楽だ。

だが父は別荘に20年間住み着いていたわけで。だったらここが終焉の地なのだろうなとも。東京より医療レベルが落ちたとしても、そこは受け入れよう。

 

 

 

さて。入院が決まった時の様子を。

 

内科の外来受診で、エコーを撮ったら大量の尿が排出されていないことがわかり、尿道カテーテルを入れたら、1200cc出てきた。おとうさん、すっきりした? 病院に来た時よりも体重が1キロ以上軽くなっちゃったね。袋に溜まる尿の捨て方をレクチャーされ、これは今後、自宅でもできますからね。はいはい。

ただ同時に脱水症状も起こしているので、今日は点滴が必要です。これは自宅では無理なので、今日は入院しましょうと。

 

ねえ、こんな説明だったから、そのときは1日2日の入院だと思ったわよ。

 

少し前に友人の入院につきあったからね、入院手続きは慣れたもので。

 

ナースステーションへの父の病状等の伝わり方が、少し曖昧なのが気になったが、そこはたぶんわたしが気にしすぎるタチなだけだから、よね。

 

 

在宅介護はじめました-6

ブログの流れを分断しちゃうけど、今週は怒涛の日々でしたので書いておきたい。

そして父が心身とも激変したおはなし。

 

4/5(月)

・在宅医療の先生がご提案・貸出してくださってた歩行器の使い勝手がとてもよかったので、あらためて業者さんから同じタイプのをお借りし、父の身長にあわせて調節していただく。

夜中に家の中を歩き回るにしても、安定したので、わたしがつきっきりでいる必要はなくなり、好きなだけ歩かせることにする。(様子を見て介助する)

・介護認定のため市の職員さんがいらして面接。これについてはいずれまた書くけれど、聞き取りされた内容から日常の反省点が浮かび上がる。無意識のうちに入院の延長の気持ちでいたので、父はずっとパジャマで過ごしていたし、口内ケアもずさんなままで許してたの。ごめんなさい。

というわけで、食後は薄めたリステリンでぶくぶくさせる。夕飯後は入れ歯の洗浄。

 

4/6(火)

デイケアで入浴。

・帰宅後、ズボンだけわたしのトレーナーに履き替えて(上はコート来ちゃうからそのまま)、車で花見に出かける。

清春美術館近くのスポット。父は歩行器で歩きたがったが、倒れたときの手間を考えて車椅子に乗せる。ちなみにわたしは病院などでボランティアをしているので、車椅子の操作がめっちゃ上手なのです。

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近くではこんな風景も! こいのぼり久しぶりに見たよ。

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パジャマ以外の服を着たこと。車椅子で散歩したこと。外で冷たいカフェオレを飲んだこと。太陽光をたくさん浴びたこと。

このへんが父に刺激を与え、自意識を少し呼び戻したらしい。

結果、

・これ以降、夜に起き出す回数が少なくなったきた。

・逆に妙な自意識が活発化?して、夜中、半年前に処方してもらったという下剤を勝手に飲むという暴挙に出て、わたしとケンカになる。知らないその薬を検索したら、現在の父にあってはならない副作用が列挙されてて、焦る。(薬が入っていた箱は隠しました)

 

4/7(水)

・マイナカードの住所変更しに市役所に行く予定でいたけれど、夕べ飲んだ下剤がどう反応を起こすかわからないので、自宅で過ごす。出先で急におなかが痛いと言われても対処できる自信ないし。結局、なにもなかったけど。

ちなみに父は、市役所にいく予定だったことも、勝手に下剤を飲んだことも覚えていない様子。

 

4/8(木)

・介護サービスを使って、父、はじめてのお泊り。連絡ノートには、食事や夜中に起きた時の対処など習慣についてを箇条書きにする。

・わたしはしばらく保留にしていた歯医者の治療のために一泊だけ帰京。

・数日前までは、車で一緒に東京に行って、わたしの家に泊まるとごねていたが、いつの間には覚悟をきめてくれた、らしい。(もしくはごねたことを忘れた)

・二子玉のユニクロで、父の外出用に腰ゴムのパンツを2本購入。

・地元の三茶でうろうろと買い物してたら、友人とぱったり。ささやかなおしゃべり。あ~心が洗われたよ~ 

・そしてわたしは3週間ぶりに、起こされることなくぐっすり眠れる!と期待してたのだが、夜中に胃炎を起こして結局は目覚めた。はああ。ま、胃炎を起こせるくらいはリラックスできたらしい?

 

4/9(金)

・高速バスの降り口にとめておいた車でそのまま、介護サービスのおうちに迎えに行く。父は外面がいいので「ふつうの人」としてふるまっていた。

他人と暮らすことは、人としての自意識を刺激するのかも。

・帰りにあっちの道から帰ると指さすので、清泉寮のソフトクリーム食べていく?と訊く。ひとつは食べられないというので、ふたりでシェア。

・なんとなく、会話っぽい会話ができるようになってきた。

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4/10(土)

ツイッターの流れで龍岸寺(真田信伊の墓所)を知り、車で向かう。夢のような風景のお寺でした。車には車椅子と歩行器を積んであるが、父は杖で歩くという。

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歩数計みたら600歩くらいだったけどね。

↓↓ 三色すみれ

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↓↓ 父に歩めるはずもなく、墓所までお参りはできなかった。遠くから心の中で、以前、信伊公を演じた友人の活躍を念じる。

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夕飯には、うどんを食べたいと言い出した。大丈夫? 食べられる?

退院(3/18)直後、父は言葉と右手が不自由と化し、なにも持てなくなってたし、なんなら入院直後(3/5)にはスッカリ呆けて無反応だった日もあって。

それが右手にお箸をもって、たどたどしくも自分でうどんを食べました。

 

ひっそりと感動。