今までいくつかのお稽古場に居合わせてきましたが、お手伝いや見学時のわたしの基本的な姿勢は「感想を言わない」です。あ、初日が開いたら言う。あえて言わないときもあるけど。
そのときの役者に言うべき言葉の優先順位ってあるから。
たとえば大作のゲネだったら、どんなにツッコミたいことがあっても、超笑顔の「信じてそのまま突っ走れ!」以外は伝えない。
で。稽古場での演出家は、役者が思っている以上に緻密な計算をしています。それを崩すのが嫌なの。なので、感想を求められると、「演出家と話して」と応えます。
笑うかもしれないけど、
どんなに注意していても、挨拶ついでにたたいた軽口のせいで、その日の芝居の質が変わっちゃうナンテことが起こるのですよw それが役者のからだです。
それでも例外があって、
今の芝居は演出家がひと言抑えておいたほうが後々いいはずなのに、あれ?スルー?みたいなとき。役者は山のように課題を抱えているのだから、そこはとりあえずキープして他を優先しようか、みたいな指摘と言えばいいかなあ。
時間的に稽古が押し迫ったりしてると、それくらいは、こっそり、言うときもある。
「今のよかったね。いい芝居になり始めてた。〇〇の哀しみに引き込まれたよ」
「え。あれは失敗でした。ほんとに泣いちゃったから」
「ん? その役として、ほんとに泣いたら、失敗なの?」
「わたしは研究所でそう習いました」
「あー。いやいや、それが意味するのは別のことで」
「でもわたしは。そう習ったんです」
「そっか」
(これ以上はもう、わたしの出番ではない)
由緒ある研究所の信念、の弊害。言葉だけが独り歩きし、真の意味が失われてる。
こういうケース、わりとあります。某劇団。某BOX。
ちなみに、「泣くシーンで泣いてはいけない」本来の理由はわかりますか?
もっとも、日本の観客は、もっと言えば関連会社の営業・広報レベルの人たちですら、舞台でマジ泣きしている役者を、大熱演しているのを目撃した!と感動するのが好きだからな。
そのアンチテーゼもあるな。
「熱演ってのは役者に対してとても失礼な物言いだってわかって使ってる?」と怒ったことあるんだけど、ハイハイ言われながら伝わってないなあ思った。
ジロドゥの言葉だったかな。「少女が少女を演じるのは事実であって演劇的な真実ではない。少女でない者が演じたとき、そこには少女という真実が宿る」
舞台で芝居をする本質はここにあります。
演劇で伝えたいのは、「泣く」動作のすごさではなく、その人の中にある、本質・真実。
つまり、
役者が涙を流せたことに自己満足してしまうと、必要な哀しみが客席に浸透しないという意味で使われます。
実際に涙したから正しい正しくないという意味ではありません。
(それともBOX的な作品だと弊害になるのか?)
演劇的な目的は、
役の持つ哀しみに客席がどれだけ共感、引き込まれて、次のシーンにつながるか。です。
わーあの人、嘘なのにマジ涙流してたぁ!すごーい!ではないのです。
さて。
今年2月。わたしが観た回の『笑う男』で。
娘を想い泣き崩れるウルシュスの台詞がぐちゃぐちゃにつぶれ、わたしはとても新鮮な気持ちになりました。
祐一郎さんは、真珠のネックレスの如く一音一音を正確に発音する技術を叩き込まれた役者です。あれが事故だったのか計算だったのか、わからないけれどw
客席は、ウルシュスの哀しみを共有し、打ちひしがれ、続く悲劇を怖れています。
浅利さんがこれを見たら、どう言うかなあと考えました。
晩年の浅利さんは、悪名高い思い込みに縛られてましたから、激怒したでしょう。
でもわたしの知る浅利さんだったら、あれはあれでいいんだよとおっしゃる気がしました。
実際「千々に乱れる想いって芝居をどうすればいいのかズット考えてたけど、そのままでいいんだと結論した。千々に乱れているのだから」とおっしゃてたし。
ただ、これは台詞がはっきり聞こえなくても内容が察せられる状況だったから「可」なんだよな、が加わる気がする。
そして絶対に。
「祐一郎ってのは、ホントおっちょこちょいだから」 懐かしいね。