あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『オンディーヌ』

劇場から家に帰って寝落ちしました。
客席で。姿勢を正して一言一句をからだ中で受け止めてた。ちがうな、発せられる一音一音を、音の連なりが組み上げて行く言葉のひとつひとつ。その言葉が織り上げていく宇宙。聞き逃せずに、マジ全ての言葉と向き合った。

どの言葉も漏れずにきちんきちんとこちらに届いてくる。そして言葉の向こうに立ち上る香り。その美しさを味わいながら、酔いながら、

しかも同時に、過去に観たほかのキャストとの差異もチェックしてる。衣裳、歌声、装置とか。

そりゃ、くたくたにもなるわ。ジロドゥ作、浅利さんの演出。やっぱり唯一無二なのでした。

 

そこまで言葉のすみずみと向き合わせてくれる演劇は、他には存在しない。別物なの。これはひとつの分野なの。
ニュアンスとか、リアリティとかではなく、言葉の芸術。個人としての役者は消えて、言葉にただただ奉仕するための肉体だけがある。

だからこそ迫ってくる人間のおろかさと美しさの本質がある。

劇団四季が経営で成功したため、ほとんどの演劇人はやっかんで浅利さんを無視したがるけれど、この美しい味わいを放棄するのはずいぶんと不幸なことだわ。

 

俗に「四季節」と、外からも内からもいろいろ悪く言われる技法ですが、つきぬけた先にあるのは洗練された詩情。人間の魂の賛歌。そこまでいけない技術のレベルで、とやかく言ってほしくない。

 

台本はずいぶん整理されていて、シーンがクリアになっていました。
ファンタジーな一幕、下世話な二幕、宇宙の深遠に触れる三幕。幕切れの無常観があっさりと流されていたのは、今の浅利さん心情が反映されてなのかな。
せりふによっては、そういう意味だったの?といまさら、新しく出会わせてくれました。役者さんが代わるというのは楽しいことだ。

 

(それでもやっぱり、わたしの中では祐一郎さんのハンスとベルトランが絶えず木霊してる。今日のキャストの方たちもよかったけれど、三幕の長台詞のシンクロ感は別物なの~)

 

 

客席には、元四季の関係者さんたちが大勢いらしてて。それっぽい挨拶を交わされて、幕間には「ロビーに先生がいらしてるよ」とささやきあって、飛んでってらして。
あー。いろいろと。えーと、なんというか。
隣の席の女性が「四季の役者さんが大勢いらっしゃってるのでしょうか」とおっしゃるので(最近、客席でも見知らぬ方からよく話しかけられます)、以前劇団にいらした方たちだと思いますよ。と答える。「こちらも?」とささやきながら前の席を示されるので、うなずく。

ちなみにわたしは帰り際に、ぽつりといらした演出家にご挨拶をしました。そりゃさすがにわたしのことを覚えてらっしゃいませんでしたが、20年ぶりにお話できたのはうれしかったし、「ああ、そうですか」というおっしゃり方がなつかしくて、

 

ね。いろいろとわだかまりはあるけど、あったけど、みんなね、みんな流そうよ。
そしてみんなで一緒に演劇に奉仕しようよ。
そんな気持ちになりました。

 

どうなんだろう。みんなが会いにいくってのは? 
わたしが言うことではないけど。
・・・・・・

 

 

あのね。

受付でチケットを受け取るとき懐かしい方(Fさん!)と出会い、ちょっとお話してて。ちょっとエピソードがあって、Fさんが反応してわたしが動作して、それを周囲の若いスタッフさんたちがにこにこと見てらしてて、
なんていうのかな、独特のファミリー感が懐かしかったのでした。
劇団四季という美徳ってあるのだわ。

 

それとも、これらも。最後に向かうゆえの輝き、刹那の美、なのかしら。

 

演出家には、次のジロドゥを楽しみにしています。と申し上げました。