あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

ていねいに生きる

自我が何でできてるか、科学的に説明された論文があると、以前NHKで見たのだが、検索のかけ方が悪いのか、ヒットしない。

自我とはなにか? 

ネット上にはいまだ、哲学的な答えしかないみたい。(なんか古い遺跡でもみているような気分になる)

 

 

自我=膨大な神経細胞(記憶などの電気信号)で網のように構成された集合体。

 

みたいな説明だった。えーと、ごめん、たぶん微妙に言葉遣いが違うと思う。でも、そんな感じ。

そしてこの解釈だったら、いわゆる多重人格も説明つく?と、ぼんやりと思った(or 番組でそう説明してたのか?)。まあ、神経の集合体がひとつの山でなく、八ヶ岳みたく分岐してるイメージ。

 

 

 

先日、haruさんとおっしゃる、いわゆる多重人格の方がTVに出てらして、なんか不思議に懐かしい印象だったので、ツイッタでフォローさせていただいた。

日々、「かれら」についての軽やかな文章を読む。(ふんわりとあたたかな気持ちになる)

 

このなつかしさはなんだろうと考えていて、大学生の頃、二種類の生き方にあこがれていた自分を思い出した。

生活のひとつひとつにこだわり、ていねいにていねいに生きるスタイルと。

ざくざくと、ラフに生きるスタイルと。

どちらも魅力的だよなあ。でも自分は、どっちつかずの中途半端に生きてくんだろうなあ。

 

haruさんは、わたしのあこがれてた、「ていねいな」ほうの生き方に近い感性をもってらっしゃるのかなとか思う。

だから。思いやりに満ちた、あの繊細さが、身近でもあり、憧れでもあるのだ。

 

 

 

いやいや。

わたしはこんなに、スッカリと錆び付いて、ポンコツな生活をしてて、わははは、ならべて考えるってどんだけ自分を美化してんだよ、とかねwww

 

すんません。

 

 

 

 

と。

その延長線上でね、今朝起きた時に、ひとつの考え方とぶつかった。

 

自分を突然、錆びついてるナと感じたのは、

幼稚で少し困った人種だねと、「ゆとり」と、呼んでいた世代が、だんだんと主流の社会になり始めてるから、かも?

 

表面的で、少し馬鹿正直な価値観。わたしの場合、ときには同世代より共感できることもあるが、「感動」の根拠がどこにあるのか、ときどき読みあぐねるときもある。

でも世界は、だんだんそっちの価値観に針が触れていくのだ。(そしてまた、すごいスピードで次の世代の価値観へと変わっていく)

 

 

で、自分は今さら、

ようやく気づいた時代の価値観に合わせて、どれだけ自分を塗り替えられそうか? や、どうよ。

変化のスピードは、今後のほうがすさまじいんだろうよ。どんどんどんどん。

 

 

 

 

 

おとといはね。中学から続く友人と、いい時代に生まれたよね。とか呑気に喜んでたんだがな。バブルも享受し、デジタル文化の恩恵も受けて。わたしたち、かなりラッキーだよね。

 

 

 

そして。半日たてば、焦りや不安は居直りとなる。老いるってこういうことだ。

自分は自分でしかない。

それ以上にもそれ以下にも、な「れ」ない。

 

うん。

しょせん「わたし」とは、電子パルスの集合体に過ぎない。

ある日。いつかは、消える。つかの間のショート。

 

ていねいに生きても、ラフに生きても。

 

 

なのに、生きることは、こんなにも幸せだ。