自我が何でできてるか、科学的に説明された論文があると、以前NHKで見たのだが、検索のかけ方が悪いのか、ヒットしない。
自我とはなにか?
ネット上にはいまだ、哲学的な答えしかないみたい。(なんか古い遺跡でもみているような気分になる)
自我=膨大な神経細胞(記憶などの電気信号)で網のように構成された集合体。
みたいな説明だった。えーと、ごめん、たぶん微妙に言葉遣いが違うと思う。でも、そんな感じ。
そしてこの解釈だったら、いわゆる多重人格も説明つく?と、ぼんやりと思った(or 番組でそう説明してたのか?)。まあ、神経の集合体がひとつの山でなく、八ヶ岳みたく分岐してるイメージ。
先日、haruさんとおっしゃる、いわゆる多重人格の方がTVに出てらして、なんか不思議に懐かしい印象だったので、ツイッタでフォローさせていただいた。
日々、「かれら」についての軽やかな文章を読む。(ふんわりとあたたかな気持ちになる)
このなつかしさはなんだろうと考えていて、大学生の頃、二種類の生き方にあこがれていた自分を思い出した。
生活のひとつひとつにこだわり、ていねいにていねいに生きるスタイルと。
ざくざくと、ラフに生きるスタイルと。
どちらも魅力的だよなあ。でも自分は、どっちつかずの中途半端に生きてくんだろうなあ。
haruさんは、わたしのあこがれてた、「ていねいな」ほうの生き方に近い感性をもってらっしゃるのかなとか思う。
だから。思いやりに満ちた、あの繊細さが、身近でもあり、憧れでもあるのだ。
いやいや。
わたしはこんなに、スッカリと錆び付いて、ポンコツな生活をしてて、わははは、ならべて考えるってどんだけ自分を美化してんだよ、とかねwww
すんません。
と。
その延長線上でね、今朝起きた時に、ひとつの考え方とぶつかった。
自分を突然、錆びついてるナと感じたのは、
幼稚で少し困った人種だねと、「ゆとり」と、呼んでいた世代が、だんだんと主流の社会になり始めてるから、かも?
表面的で、少し馬鹿正直な価値観。わたしの場合、ときには同世代より共感できることもあるが、「感動」の根拠がどこにあるのか、ときどき読みあぐねるときもある。
でも世界は、だんだんそっちの価値観に針が触れていくのだ。(そしてまた、すごいスピードで次の世代の価値観へと変わっていく)
で、自分は今さら、
ようやく気づいた時代の価値観に合わせて、どれだけ自分を塗り替えられそうか? や、どうよ。
変化のスピードは、今後のほうがすさまじいんだろうよ。どんどんどんどん。
おとといはね。中学から続く友人と、いい時代に生まれたよね。とか呑気に喜んでたんだがな。バブルも享受し、デジタル文化の恩恵も受けて。わたしたち、かなりラッキーだよね。
そして。半日たてば、焦りや不安は居直りとなる。老いるってこういうことだ。
自分は自分でしかない。
それ以上にもそれ以下にも、な「れ」ない。
うん。
しょせん「わたし」とは、電子パルスの集合体に過ぎない。
ある日。いつかは、消える。つかの間のショート。
ていねいに生きても、ラフに生きても。
なのに、生きることは、こんなにも幸せだ。