ぼんやりと考えてることを、言葉にできるか書いてみるね。
40年くらい前に読んだハインラインの『メトセラの子ら』だったと思うんだけど。
↓↓ あ。これね。(今、アマゾンレビュー見たけど悪評ばっかだわね。矢野徹さんの訳、読みやすくてわたしは好きだけどねぇ)
本を手放して久しいので、うろ覚えなのですが、迫害にあったマイノリティ一族が、ノアの箱舟的に宇宙へ飛び出し、いろいろな星/宇宙人たちと出会いながら、生きる希望を見出すお話です。
(ちなみに読み終わった直後はふーんという感じなのですが、少し時間をおいて感動がこみあげ涙ぐんだのを覚えてます。人間のしたたかさ、あきらめの悪さみたいなものに、ああ、だよねえ、みたいに、あとからキた)
で、その中に、ほぼ海って星に住むイルカのような知的生物がいて。生命体としては個の集合なんだけれど、意識・精神は全員で共有してるって設定だったの。
ひとりが得た知識イコール瞬時に全員の知識となる。みたいな。だから意見は即、総和されて、争いは起こらない。
それ、幸せなのかな?とか主人公が問うと、イルカはどうして、これ以上の幸せはないでしょうみたいに、応えてたと思う。(うろ覚えです)
40年くらい前、つまり美大生だったわたしには、このイルカたちのあり方は知的生命体としてつまらない、あってほしくないあり方だと感じられた。人間は、外見も中身も、別々だからおもしろいんじゃないの。
でもまあ、テメー勝手な人間がこーなることはありえないか、とすぐに結論した。わけだけどね。
40年が過ぎて。
ネットに情報が張り巡らされ、モバイルを手放せないわたしたちの価値観は、限りなくこのイルカたちの意識・精神に似てない?とある日、気づく。
わたしたちはSNSとかで、個としての自分を発信してるつもりだけど、結果として、マジョリティな価値観のすり合わせと確認におぼれてないかな? 似通った個であることを求めて、そうあることに安心したがって、いないかな。
イルカたちのテレパシーに代わるものを、お手軽な機械として「持って」しまった気がするの。
ちょっとねえ、ゾッとした。
わたしたちはイルカに近づいているの? それは楽しい進化なのかな? ひとりのオリジナルであることを、ちゃんと大切にしてるかな。
わたしは。(胸に手をあててみる)
本当に本当に、自分が望む唯一のものに向かっているのだろうか。(でも、それって何?)
大勢に支持されたい考えに流されていないか。ないか? か?(エコー)
共感・共有というのは、もしかしたら恐ろしい感覚だ。
個がすべてに優先されるという考え方は、時代的に、もうありえない。それはね、納得できるの。問題は、その中で、どうするか、だわ。
えー。とりあえず、考えたのはこの辺まで。
で。なのでつまり、ブログとかSNSとか止める気はないけれど、それほど熱心でもないのね、今。
そして。書くかどうかわからないのに習慣的に写真を撮る自分は、なんなんだろうかと考えている。うん。書こうとすれば、ブログのネタはたまってるわ。
わたしはSNSで、あんまりフォローしてないけど、流れてくる情報は楽しく読んでます。それくらいで充分な量と見切ってる。で、だから、引きこもっていても、まるで孤独を感じない。
そのへんもねえ、どうなんだろうなあと思うのよねえ。