今朝から繰り返し思い返してる、昨日なんとなく自分が口にした言葉。
お絵描きワークショップで小学生の男の子(とママ)に。
「好きに描いていいんだよ、きれいに描かなくていいの。学校じゃないんだから」
このコは後半、絵に額縁をつけるあたりで独創性を発揮。
みんなで使っているボンドの蓋をモチーフとして貼り付けてしまい、
それをにこにこと見守って、出来をほめたあと、
さて、
ボンド本体は蓋を失くしてどうしましょうと、首をひねっているスタッフたちもステキだったし。
じぃっっと長い長い時間をかけて、ほんのチョットしか色を塗れなかった女の子がいて。
でもたぶん、そのコは。
真剣に自分の美意識と向き合っていたから逆に手を動かせないんだろうな、と感じられたので。
ようやく額縁をつけたあとも、弱々しくてさびしい仕上がりだったから。
あなたはぺたぺたしてごらん、と、たくさんの段ボールの破片と木工ボンドをわたした。
こーいうことをしてもいいの? こーいうのがもっと欲しい。
と、かの女はこだわりを発揮した。
ずっと、離れて見ているだけだったパパが、最後はスタッフの作業を引き継いで、
ちょきちょきと段ボールを切り抜いては、娘に手渡していた。
他のコたちの3倍は時間がかかったけれど、
誰もが納得の、素晴らしい仕上がりの作品になりました。
月並みな言い方をすれば、
子どもたちの描く絵の素晴らしさ。全身で格闘したエネルギー。
それを引き出せたという、スタッフとしての自負。
「上手に描かせる」という結果を求めなかったからこそ得られた、結果。
逆の言い方をすれば、
学校じゃないから子どもたちが創れた作品。ひとりひとりの奔放。
わたしのいう「おもしろかった」というのは、そういう風景でした。
ずっと、ね。
小学校から学芸会が無くなった傾向を残念に思っていた。
子どもたちの教育から欠けてしまったもの。
最近の若いコたちの中に育たなくなった感性。
先日、少年院で指導されてる演劇祭についてのお話を区民講座で伺った。
「協調性」「役割分担」「責任」を学習するための、学芸会。
指導教官の、少年たちひとりひとりとの向き合い方の熱血ぶりがそれは素晴らしい様子で。
だからこそ、意義の深いことで。
今の学校から失われた「教師の手間暇」が、ここに生き残っていたことに
胸が熱くなった。
でも、このとてつもない「手間暇」が、今の教育現場には無理なんだろうなと、
とても残念にも感じたわけで。
(すべて、今の先生は忙しいからという言い訳で括られがちです)
でね。
ワークショップを通して。
子どもを育てるのはPTAだと思い込んでた自分の狭さに、気づいた。
義務教育が子どもを育ててくれるというのは、過剰な期待だわね。
学校がこどもの可能性を育てる手間暇/能力に欠けるのなら。
地域が、社会が、
そういう場を用意すればいいんだ、という選択もあるわよね。
結果を求めない。思い込みに縛られない。
それだけで。
生きることはガゼン楽しくなってくるよね。
うん。
それを目的としたら「教育」や「成長」は成り立たない。
でも。
生きる意味に、触れることは、できそうな気がしたんだ。