続きを読もうとした本(SF)の初っ端に、楽園と書いてニルヴァーナとルビがあり、そこで意識が中断されたぁ。
(この場合、ニルヴァーナを固有名詞として使っているので、以下はその作品とは無関係です)
ニルヴァーナ、つまり涅槃とは、個人の在り方の究極なわけでしょ。
楽園というのは、場所のことで、
わたしのイメージでは、そこには大勢の人(生き物)が存在する。
(究極な孤独を楽園と呼ぶのも、また別の考え方として「あり」かもしれないけど、寂しい違和感がある)
人の行き着く先として、涅槃(個人)か、楽園(社会)か?
と、別々な考え方があったのかと、考えたことがなかったと気づいたよ。
涅槃は仏教の考え方で、キリスト教圏にはなかったように思うのだけど。 神の国に行くことが目的で、神(仏)の存在に近づこうとする考え方はしない(させない)思想?
おや。 そのへんをキッカケに、文化・施政の比較として、何かが辿れそう?
ま、いんだけど。 (思いついただけですから)
で、涅槃/さとり について、考えて。
さとりが深くなるにつけ、肉体が浄化され、精神が浄化されていくんだよね?
あれ? そしたら最後には、わたしという「個」という存在も「無」になるの?
・・・・・・
それ、いやじゃん。
「わたし」が「わたし」でなくなるのも。 「かれ」が「かれ」でなくなるのも。
お互いの執着も、
お互いの、お互い以外に対する執着も、
なくなったら、「意味」がない、ような。 とても、つまらない、ような。
煩悩まみれのほうが、幸せ?だと、観念しようと思い。
これ以上、考えないように、ここに書き落として。
さ。 本を読もう。 (1ページめで、このザマだ)