あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

こんな夢を見た

先日。夢の中で、

とても旧い友人(昔いた会社の同僚)と一緒だった。これから作業場だか会社だかに戻って、なんかをしようという流れのなか、

 

振り向くとその友人がいなかった。

浜辺の人波に向かって、わたしは大声で2回、かれの名を呼ぶ。

 

夢の中で。

 

大声を出すことも、誰かの名を呼ぶことも、初めてだったかもしれない。

肺から何かが絞り出される感じだった。

 

戻ろうよ。先にいってるのかもと、もうひとりの連れ(こっちは誰か、わからない)が言った。

そうだね。

 

 

 

 

気になるのは、

ちょうど亡くなったころ、夢で先生が会いに来てくれてたんですよ~と訊かされた話に、似ていること。おいおい。

 

だが、かれとも、共通の友人とも、完全に切れてしまっているので、無事を確認する術はない。

 

 

すずちゃん。元気かい?

 

 

 

ちなみにかれは、わたし以外がすずちゃんと呼ぶのを許さなかったんだ。一まわり半だか年下の、そんな仲良し。

 

わたしを守って喧嘩もしてくれた。

 

まんがの『エアマスター』のジュリエッタってキャラわかる? なんとなく似てるよ。なんだよ、ジュリエッタって。んー喧嘩がめっちゃ強くて、かっこいいよ。かっこいいんなら、許す。お、これからジュリエッタって呼んでいい? はあ?

 

懐かしいな。

 

 

 

 

 

 

 

ボーダー

コロナ禍でうやむやになった傾向があるが、

60歳を越えたあたりで、生き方を変えようと思った。

 

わたしを大切にしない人とは、一線を画す。

 

 

 

え。当たり前じゃない。と言われそうだが、わたしは原則、寄ってくる全ての人を丁寧に受け入れていた。

 

それには地域のボランティアが大きく関係してくるのだが、

作業場で大勢の人を楽しく回すために、こちらのふところは開くし、相手のには飛び込むし、

年末年始とかに友人たちが遊びに来る際、よく知らない人が混じっていても気にしなかったし、初対面も誘ってたし、

 

 

あー。何故わたしがこんなに世話焼きになったかは、また別の分析があるのだけれどね。

 

 

 

 

で。あるとき、無神経な言動に傷つくことが重なり、

 

あげんさんに無条件で何かをしてもらうこと、甘えること、利用できることを「あたりまえ」にされてもなあ、という気持ちになってしまった。

 

ちなみに。対象はひとりではありません。何人もいました。

 

 

 

もちろん、そうしてしまった、過去のわたしにも原因はあるよ。でも、わたしが、今後も我慢すべきことだろうか。

 

 

 

不都合なことに、ボランティアの作業場で、年長のわたしはリーダー的な位置なので、「拒絶」は慎重に密やかに、始まった。

不愉快な相手でも、居場所を奪うのはよくないでしょ?

 

言葉にしたことはないけれど、わたしの態度で、気づく人は気づくし、フォローしてくれるし。

でも、楽しいことではなかったかな。

 

 

 

で、コロナ禍。集まりそのものがなくなったから、わたしの表明の場もなくなった。

 

 

 

で。もの思う時間の中、大人げないかなあという迷いも出てきた。

 

 

や。でもでもでもね。これ以上、わたしが我慢するって、どうよ。

 

 

拒絶されてることに気づかず、なんで最近はこれこれをしてくれないの?と尋ねてきたのもいる。あなたのこういう態度に、わたしはこういう選択をとりました、と答えた。へえ、そっか。

 

 

はあ?

 

 

でも、ま。言葉にすれば、つながりは復活しなくもないのかな。

でも、うん。こっちからは、働きかけないけどな。

 

 

 

これを読んで、え、自分はどっち?と思ったら、ご連絡ください。

話し合いましょう。

 

 

うつろう日々

友人の本に、

 

思いは移ろっていくのだから、ブログとかに日々について書きとめておかなきゃ、とあり、

読みながらしみじみと、そうだよなあと思ってから、

うん。今日から書こう!と考えてから、

 

あれ。どれぐらい立つんだろうと。

 

さっき思った。小海線の車窓から富士山を見ながら。

 

 

近くに座る白髪のカップルは、どう考えてもご夫婦ではない。

はじめはずいぶんと奥さんに対して紳士で、旅行にはしゃいでるなと感じたのだが、ふと見えた女性の横顔の華やぎに、や、奥さんじゃないな。恋人? 

しかも。ぎこちなさが残っているというか。初々しいというか。おふたりとも、わたしより年上に思われるが。

うーん。友人から一歩進んでの、初めてのふたり旅行、ってあたりか?

どうやら、わたしの視線を気にしてる風もあり、見せつけたい風?もあり、

窓に視線をそらしながら(というか、聞こえてくる会話以外、もともと目の端によぎる程度しか見てないのだがw)、どうか、いい時間を過ごしてくださいと願う。

 

人生を楽しんでほしい。袖すら触れ合っていない相手だがな。

 

 

今、山荘の外はマイナス6度だって。しんしんと静かだ。

さっきサッシを開けたら、星がスゴク美しかった。

 

書くことで、少し自分と向き合おう。

 

 

 

父や、自分の入院・手術についての文章が止まったのは、わかっている。

書き進めると、地方(山梨や長野)の医療崩壊を言及することになるからだ。責める気はないけれど、だから余計に書き方が難しい。

 

 

入院中に、父はしゃべれなくなったり、右手が使えなくなったりした。(退院して、それなりの生活をさせたら治った) 原因が何か、わたしがわかっていることを医師たちも知っているが、それ以上、話題にはしていない。

 

 

わたしが死にかけたのは、明らかに手術を失敗されたからだ。

でもまあ、2回の追い手術でどうにか生き返らせてくれたので、言及しなかった。ふらふらで頭が回らなかったのもあるかな。(で、退院してから、父の主治医にあれこれを確かめた)わたしがニコニコしていたので、担当医師はうまくごまかせたと思ったのだろうが、

2か月後の別手術前、看護師の問診時に、わたしの放った軽口でバレてることを病院側も知った。

 

というわけで、最初の主治医と廊下ですれ違って挨拶しても、向こうはおびえて強張っていたし、手術前に「信用してますのでよろしくおねがいしますネ」と明るく頭を下げても、新しい主治医には皮肉としか伝わらなかった。

 

え。裁判沙汰?

いやいや。そうでなくても、特に地方は、医者や看護師が少ないのだから、減らすような騒ぎは避けたいよ。

結果。わたしは生き延びたし、

父も、わたしの素晴らしい介護の結果、それから3年近く楽しい日々を送れたしね。

 

 

 

あとね。女子校で長く教師をしていた父は、それはそれは大勢の憧れの対象だったので、

そのファンタジーを守り通すのもわたしの役目だからね。

現実を文章にしづらい。

 

 

 

ほとぼりが冷めて、いつか書く日がくるのかな。あの壮絶な出来事とか。

 

 

わからないな。

 

 

 

3年間の介護は、なにやかやと乗り切っていて。

問題は、最後の一か月で。マジ、たいっっっっっっっへんっだった。

(恵まれてたのは、訪問医がホントウにいい先生で、かなり強引に父をホームにいれてくださったことで、逆に東京だったらあり得なかったのかもしれない)

 

 

あー。

 

父が亡くなったあと、わたしがどれだけ落胆するか、周り中が心配してくれてて、

それがとんでもなく肩透かしくらったのでは?と思うのだが。

わたしはすべて粛々とこなしているし、

というより、顔色も表情も別人のように活き活きしちゃってるしで。

 

いつか来ることと、前々から心づもりができてたからと説明してたわけだけど。

(ま。今後、どかんと来るかもしれない。母のときがそうたった)

 

 

ごめん。もうひとつある。

わたしは解放されたんだよね。認知の介護から。精神を病んだ父から。

 

そういう後ろめたさと、

 

そしてわたしに刻まれた父のイメージは、最終的な人格だから、かなり昏いものになっていたのよね。

 

でもそれも、移ろい昇華されていくものだったよ。

 

 

お葬式は親族だけで山梨で済ませたので、納骨までの期間、弔問のご案内をした。狭いマンションなので献花はご辞退しますとしたので、訪問も代表がいらっしゃることにしてくださったりで、

それでもバラバラと50人くらいいらして、長いと5時間くらいおしゃべりしていった。

(もう一度言うけど父は女子校の教師で、わたしも中・高は同窓なので、卒業生や先生と話が弾む)

それ以外にも、電話やお手紙をいただいたし。

 

お葬式という儀式が大切だと思い知ったのは、

それぞれのあふれる想いを全部、わたしがひとりで、ありがたく丁寧に、受け止めることになったからだった。

ほら。お葬式だったら、このあふれる想いをお互いに受け止めあってくれて、負担が分散されたわけよね。儀式にはやっぱりいろんな意味や役割があるのよ。

 

先日は、父が顧問をしていた軟式テニス班(現ソフトテニス部)が偲ぶ会を催してくださり、あ、これについては別に書くかな、60人くらいの参加で。

 

 

そうこうして。父への憧れや感謝や思い出のシャワーを浴びるうちに。

父が生徒さんたちを眺めて感じていたであろう愛しさも体感して。

 

次第に、父の欠点も長所に思えてきたのよね。

おとうさん。佳き人生、おめでとう! という気持ちになったんだよね。

 

 

想いは移ろう。いずれ、やさしいひかりをまとう。

 

 

 

 

父が亡くなりました

父が亡くなり、昨日26日、親族のみで見送りました。

 

通夜はなく、自宅(別荘)に神主さんに来ていただいた後、車を連ねて焼き場へ向かうという、北巨摩と東京の風習が入り混じったお葬式となりました。

感染症(特に山梨の昨今)のこともあり、人が集まり過ぎないよう、ご報告・ご案内は事後となりました。失礼に思われましたらお許しください。

 

お別れについて

遺骨は現在、八ヶ岳の家にあり、末日に三軒茶屋の乃里子のマンションに移します。そこから12月3日前後(まだ未定です)の納骨まで、

父にお別れをご希望の方はご遠慮なくご訪問ください。わたしが留守をすることもありますので、いらっしゃる前にご一報いただけると助かります。

※10/28修正

 

(わたしの部屋ですが、3年間ほとんど留守をしていましたので、掃除や整頓があきれるほど行き届いておりませんが、特に先輩方、どうぞ大目にみてください)

 

ご都合が難しい場合、遠くからお気持ちを飛ばしてくださっても、父には届くと思います。ご無理のないようになさってください。

 

 

以下は葬儀当日の配布からです。

ご挨拶

八ヶ岳では空が青く澄み、風は鋭さを帯び、紅葉は色を深めています。
本日はご多用中にもかかわらず会葬くださり、ありがとうございます。

父 八郎は、八ヶ岳の山荘で元気に一人暮らししておりましたが(94歳の誕生日過ぎまで車の運転をこなしていました)、2020年末から体調や判断力が不安定になり、翌年2月の受診で、左脳に慢性的な硬膜下血腫、また前立腺肥大による腎不全を指摘されました。3月1日には肥大した前立腺が尿管を圧迫、尿を自力で排泄できなくなったことから、尿道カテーテルを挿入した生活が始まりました。
3月半ばからは要介護3(寝たきりではないが、すべてに介助がなければ生活できない)の生活が始まりました。これに伴い、住民票も世田谷区から北杜市に移行しました。
 毎日好きなものを自由に食べ、飲み、好きなことをして気ままに暮らしておりましたが、少しずつ少しずつできないことが増えていきました。
 2023年9月初旬、在宅介護の限界であると主治医の指導が入り、ショートステイでお世話になっていた仁生園での長期ショートステイが始まりました。穏やかさとお騒がせが混じった生活をしていたようです。

 10月21日はいつも通り朝食をとり、いつも通りうとうとしているうちに呼吸がおかしいと職員さんが気づき、主治医や東京にいた乃里子に連絡が入りました。乃里子は三軒茶屋駅近くにおり、そのまま電車に乗り、二駅先の渋谷で乗り換えているときに呼吸停止を知らされました。予測できない急変の中、あっという間に眠るように逝ってしまったようです。

乗り継ぎがうまくいかず、乃里子が父と対面できたのは夕方でした。業者さんにお手伝いいただき父を連れて山荘に返ってきた時、星が冴え冴えと美しかったです。
 この日、一志は仕事で一日中身動きが取れず、駆け付けたのは翌朝でした。

 生前、みなさまにはいろいろお世話になり、ありがとうございました。
 おかげさまで父は豊かで幸せな人生を送れたと思います。


阿原八郎 履歴
1927年(昭和2年)1月8日 阿原才一郎、むめ の男ばかりの第八子として生まれる。
出生地 東京府北豊島郡板橋町大字下板橋(東京都板橋区下板橋)■番地

【住所】
1933年(昭和8年) 牛込区市ヶ谷台町に転居
1945年(昭和20年) 戦災で目黒区中目黒■丁目に転居
1954年(昭和29年) 世田谷区瀬田■丁目■番地(■丁目■番)に転居
1999年(平成11年)1月 八ヶ岳高原に山荘と天文台を建てる
   以降、超新星の観測・家庭菜園・庭仕事の日々を過ごす
【学歴】
1944年(昭和19年)4月 東京物理学校(東京理科大学)入学
1947年(昭和22年)3月 同校理学部物理学科 卒業
【職歴】
1947年(昭和22年)4月 実践女子学園高等学校 就職
昭和29年度・32年度 高校卒業時担任、中学クラス担任を数回
1977年(昭和52年)4月 同校教頭に就任
1992年(平成4年)4月 実践女子学園中学校・高等学校校長に就任
1.    大学受験の進学校の導入
2.    校長の定年制の実施
1998年(平成10年)3月(71歳) 同校退職(勤続51年)
1999年(平成11年)4月 東横学園中学校・高等学校校長に就任
2002年(平成14年)3月 同校退職
【配偶者】
1958年(昭和33年)10月 田波八重子と入籍
1989年(平成元年)11月 八重子 没
【家族】
1959年(昭和34年)9月 長女乃里子誕生
1963年(昭和38年)7月 長男一志誕生

2021年(令和3年)3月 前立腺肥大による腎不全で入院。以後、山荘で療養生活に入る。
2023年(令和5年)10月21日 老衰のため死去。96歳没。

 

 

 

在宅介護の途中経過

「この父娘は引き離さなきゃダメだ」と訪問医の先生に言われたとき、

まだ大丈夫ですよ~と言いかけて言葉を飲み込みました。

 

別荘で父のワンオペ在宅介護を始めて、もうすぐ3年。

 

[まだ]ってなんだよ[まだ]って。(←自分の心の声)[まだ]ってのは[いずれ]って意味を含んでて、それは[すぐ]かもしれなくて。今言い張ったところで[じきに]おなじ内容で先生に泣きつくかもしれないわけで。と考えること一秒。

 

「あんたはよく頑張ったんだから。ほんとに頑張ったんだから、もういいじゃん。自分の人生をもっと大切に考えなさい」

先生はほぼ同学年なので、言葉遣いが近しい。

 

わたしはおまかせしますと頭をさげました。このとき、ちょっとベソかいちゃったから、先生も看護師さんも心をかためちゃったんだと思う。

「とりあえず半月か、一か月。いつものショートステイと同じ感覚でホームに預かってもらいなさい」

で、これが先生のテクニックだったと気づくのは、この数日後。

 

    *

 

その2週間前の訪問時から「ちょっと顔色! 大丈夫?」と心配されていました。自分では[まだ]大丈夫なつもりでしたから、えへへへとかわしていました。

 

    *

 

まあ今、胸に手をあてて考えてみると、どう考えてもダメじゃん!がふたつありました。

ひとつは上記の[まだ]です。[まだ大丈夫]は[もう限界]にとても近いと気づければよかった。今後、同じように言葉を返す人がいたら、わたしはそう言い張る決心をしてます。

もうひとつは、えーと、ちょっと言うの恥ずかしいな。

寝るときにね、ぬいぐるみを、クリプトビオシスって某ゲームに出てくるピンクの芋虫なんですけど、ふかふかと抱きかかえて目を閉じて。自分の中でその状態になったらすべてのストレスを手放すって暗示をかけてて。ほぼ毎晩、そうしてから寝てた。

うんヤバイ。めっちゃヤバイ。

 

    *

 

父としばらく離れるよう指導を受けたとき、もうひとつ言われたのは「自分は今、スゴク辛いんだ! もうどうしようもないんだ!って誰かに言いなさいよっ。そう言える相手くらいいるでしょ?」

 

はい。

 

    *

 

わたしはもともと、誰かひとりにわぁーっと愚痴をこぼすというより、大勢に小出しにグチグチ分散させるタチではあるのだけれど。

 

ひとりに話し始めたとき。ほんの入り口で、相手のほうがいっぱいいっぱいになってしまいました。

 

そして気づいた。わたしは地獄の中に居たんだ。

凄惨すぎて誰にも話せないくらいの日常に暮らしていたんだ。

 

    *

 

以来、「だいじょうぶですか?」と声をかけてくれる方には「だいじょぶじゃなーい」と甘えて、内容は話さない。「疲れがとれないのよ~」とする。これも事実だし。

「元気だった?」には「わーん、会いたかったよ~」と抱きつく。(あれ、これはいつものまんまかw)

で、はいはいと受け止めてもらう。

  

劇場で、ボランティアの場で、その他、大勢の方たちから、少しずつ、元気をもらって。

 

ホントウに叫びたい内容は、墓場に持っていくのだと知る。

 

    *

 

ありがたいことに、訪問医チームと訪問看護師チームは内容を承知してるので、吐き出せなくても、独りぼっち感はないのです。

 

世の中には完全な孤独の中で抱えてる方たちもいるのだろうに。

 

恵まれてるよな。うん。

 

   *

 

父を預けて数日後。ケアマネさんから電話がありました。

 

ホームでの、山あり谷ありな父の様子の報告があり、

先生からの提案として、2週間ではなく[しばらく]このまま様子を見ましょうと言われました。(先生の段階的な指導か?と、この辺で気づいてくる)

 

あー、そしたら足りないいろいろがありますよね。紙パンツは、いらない? あれやこれやや差し入れは? 先生からはしばらく会うなと言われてて。はい、事務所に届けるだけに。父がせっかく落ち着いているので刺激しないように、まあ、はい。

 

じゃあ様子を見ながら、今後は先生の判断(ホームに往診に行ってくださってる)に従うということで。

 

 

ふ。ここまでのやりとり、今後の選択肢があるっぽいでしょ?

 

 

電話での話題が切り替わって。

業者さんから借りてるベッドや車いすの引き取り手続きの話になりました。

 

ベッドを回収されちゃうって、えーと、お正月とかに帰れる可能性は?

もうないわけですし。

え。ない、ですか。(ガーンガーンガーン)

(しまったの気配)介護保険の関係で、ずっとホームにいるということは、そのへんの借り料が実費になってしまうんですよね。

はあ。あ、わかりますよ。(ガーンガーンガーン)

じゃあ。もし帰宅とかそういう話になったら、改めて借りる手続きをするということで。

はい。はい。……はぁ。

 

    *

 

くっそぉ。先生ははじめっからホームに収容するつもりだったよね。今のところはショートステイの形とってるけど、

はじめっから、このまま、このままずっと、最後まで、

 

しゃあしゃあと、まあ。よくも。……いいえ、

 

ありがとうございます。その思いやりに、感謝します。

 

    *

 

別荘で、看取る選択肢が消えたらしい。

 

    *

 

かわいそうなおとうさん。2週間のお泊りのつもりが、ね。

ずっとわたしが抵抗していた[おくすり]も飲まされて、

そのおかげで、穏やかに楽しく過ごせているのなら、いいけれど。

 

    *

 

かわいそうなわたし。

父の死を前提とした、あっちの家とこっちの家の整理を、少しずつ、淡々と、始めている。

もう戻ってこない。

介護という相互依存の対象を失い、

去年の暮れからの、2回(正確には4回?)の手術後に養生しそびれた自分のからだに刻まれたツケを、今さら感じながら、

 

途方に暮れている。

 

どんなに寝ても、この疲れは取れない。