最近、ブログが書きにくくなったのは、アンテナの指針が変わってきたからだと気づいた。
価値判断の目盛りとでもいうべきものが、幼い頃からわたしにはあったわけだけれど、
ここ最近にきて、他の人にはどう捉えられているんだ?と考え込むことが増え。
たとえば。FBの友人のコメント欄を見ながら、
いや、それはこーでしょうと書き込みかけて、手が止まり。
チョット待て。
今、この人たちはお互いに共感しあうことを楽しんでるわけだから、
わたしが別の新しい視点を差し入れても、ウザいだけなんじゃないの?って。
で。黙る。
素通りする。
そして、気づく。ああ、コレ。今どきの若いコの行動パターンじゃないの。
演劇ボランティアで、フロントのお手伝いのついでに上演作品を客席で見せていただく。
そのときの作品は。新しいことをしているようで、だがわたしには、
昔むかしのアングラ芝居(懐かしい)が清潔にまとめられているくらいの印象で、
よくできてるな、がんばったなとは思っても、
新鮮味も感動もなかった。
客席からときどき湧く笑い声に、何故そこで笑うのか、まったく見当もつかない。
(実はコレがショックでした)
客席の片付けをしながら、ボラ仲間の大学生を注意深くさぐる。
かれは、この作品に軽く興奮している様子だ。
――このコにはおもしろかったんだ。じぶんのどこかがくらりと眩暈する。
「今のサントラ、ほしいなあ」なんてつぶやくから、
んん。音楽かわいかったよね、とか、内心ではなんじゃ自分?とか思いながらも、話を添わせる。
そうだよな。アングラを知らなければ、この作品は新鮮な切り口に見えるわよね。
そしてかれが、アングラ(70年代ころの演劇)を知らないことは、責めることではない。
帰りの電車で、もうひとりの男子も加わり。
わたしには、なんでソコで笑えるのかがわからなかったのだと訊いてみる。
ラッキーだったのは、ふたりとも劇団主宰の経験者で、
明確で多角的な視線と言葉とで分析と解説をしてくれたこと。
(役者さんや技術さんだと、芝居への係わり方の角度がわたしとは少し違うので、
ズレが生じて、欲しい答えに辿りつかないことがあるのです)
説明されれば、納得するし。不安はなくなる。
そのあとは、その作品のあそこがここが、と、感想を自由に交わせました。
楽しい。
そういえばここしばらく、
いわゆる演出家や劇作家の友人とはおしゃべりしてないからな。と気づく。
眠っていた何かが、ぷるっとした。
若い人たちの感性に関心が向いているのは、
中高生が演じるミュージカルを書こうとしているからで。
その流れで、今さらながら『桐島、部活やめるってよ』の
映画を観て、原作も読んだ。
映画、おもしろかった。くすぐったく懐かしい共感。そして思ったのは、
この構成や設定はおとなの手練れの結果だし、
台詞のニュアンスは役者本人たちの自発(WSの結果)みたいで。
作家本人の言葉や想いは別だよね。と、
結局、原作も読んだ。
学校カースト感は、こっちのほうが露骨。
(正直にいうと、
地方の高校のカーストを、苦笑していやらしく見下ろしている東京人の自分も、いる)
映画とは別の、好ましい感触がイタい。
そして、
この原作を映画にしようとすると、ああなるのか。と、そっちもまた興味深くて。
作品の中の登場人物たちがいて。
作家がいて、編集さんがいて。
映画にしたおとなたちがいて、演じた役者さんたちがいて。
風景があって。
それらをひっくるめた、繊細な「想い」の、
「思いいれ」の、揺れや、したたかさを味わって。
結果、
わたしの中の価値感は、今、
絶えず動いている。
かたちを立ち上げては崩れる砂のように。
砂は、微かにきらめいている。
溜め息だ。
立ち往生だ。
動き続けるその流れを、わたしは描きとめられるのだろうか?