あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

価値感が移ろう

最近、ブログが書きにくくなったのは、アンテナの指針が変わってきたからだと気づいた。
 
 
価値判断の目盛りとでもいうべきものが、幼い頃からわたしにはあったわけだけれど、
ここ最近にきて、他の人にはどう捉えられているんだ?と考え込むことが増え。
 
たとえば。FBの友人のコメント欄を見ながら、
いや、それはこーでしょうと書き込みかけて、手が止まり。
チョット待て。
今、この人たちはお互いに共感しあうことを楽しんでるわけだから、
わたしが別の新しい視点を差し入れても、ウザいだけなんじゃないの?って。
 
で。黙る。
 
素通りする。
 
そして、気づく。ああ、コレ。今どきの若いコの行動パターンじゃないの。
 
 
 
演劇ボランティアで、フロントのお手伝いのついでに上演作品を客席で見せていただく。
 
そのときの作品は。新しいことをしているようで、だがわたしには、
昔むかしのアングラ芝居(懐かしい)が清潔にまとめられているくらいの印象で、
よくできてるな、がんばったなとは思っても、
新鮮味も感動もなかった。
 
客席からときどき湧く笑い声に、何故そこで笑うのか、まったく見当もつかない。
(実はコレがショックでした)
 
客席の片付けをしながら、ボラ仲間の大学生を注意深くさぐる。
かれは、この作品に軽く興奮している様子だ。
――このコにはおもしろかったんだ。じぶんのどこかがくらりと眩暈する。 
「今のサントラ、ほしいなあ」なんてつぶやくから、
んん。音楽かわいかったよね、とか、内心ではなんじゃ自分?とか思いながらも、話を添わせる。
 
そうだよな。アングラを知らなければ、この作品は新鮮な切り口に見えるわよね。
そしてかれが、アングラ(70年代ころの演劇)を知らないことは、責めることではない。
 
 
帰りの電車で、もうひとりの男子も加わり。
わたしには、なんでソコで笑えるのかがわからなかったのだと訊いてみる。
 
ラッキーだったのは、ふたりとも劇団主宰の経験者で、
明確で多角的な視線と言葉とで分析と解説をしてくれたこと。
(役者さんや技術さんだと、芝居への係わり方の角度がわたしとは少し違うので、
 ズレが生じて、欲しい答えに辿りつかないことがあるのです)
 
説明されれば、納得するし。不安はなくなる。
 
そのあとは、その作品のあそこがここが、と、感想を自由に交わせました。
楽しい。
 
そういえばここしばらく、
いわゆる演出家や劇作家の友人とはおしゃべりしてないからな。と気づく。
眠っていた何かが、ぷるっとした。
 
 
 
若い人たちの感性に関心が向いているのは、
中高生が演じるミュージカルを書こうとしているからで。
 
 
 
その流れで、今さらながら『桐島、部活やめるってよ』の
映画を観て、原作も読んだ。
  
映画、おもしろかった。くすぐったく懐かしい共感。そして思ったのは、
この構成や設定はおとなの手練れの結果だし、
台詞のニュアンスは役者本人たちの自発(WSの結果)みたいで。
作家本人の言葉や想いは別だよね。と、
 
結局、原作も読んだ。
学校カースト感は、こっちのほうが露骨。
(正直にいうと、
 地方の高校のカーストを、苦笑していやらしく見下ろしている東京人の自分も、いる)
映画とは別の、好ましい感触がイタい。
 
そして、
この原作を映画にしようとすると、ああなるのか。と、そっちもまた興味深くて。
 
作品の中の登場人物たちがいて。
作家がいて、編集さんがいて。
映画にしたおとなたちがいて、演じた役者さんたちがいて。
風景があって。
それらをひっくるめた、繊細な「想い」の、
「思いいれ」の、揺れや、したたかさを味わって。
 
 
 
結果、
 
 
 
わたしの中の価値感は、今、
絶えず動いている。
かたちを立ち上げては崩れる砂のように。
砂は、微かにきらめいている。
 
溜め息だ。
 
立ち往生だ。
 
動き続けるその流れを、わたしは描きとめられるのだろうか?