他人のもどかしい部分はよく見えるけれど、自分のもどかしい部分ってのはよくわからない。
うっかりすると、自分がもどかしい状態に陥っていることすら気づかず日々を楽しんでたりするわけで、
それが一番こわい気がする。
いろんなツールがあるし、友人たちはやさしいし。
自分が充実して過ごしていると思い違いできるのは、とても簡単なんだと思う。
人生を重ねていると。
自分がそうならないように一応アンテナを張っているつもりでも、
それでもゆるやかに、気づかないままに蟻地獄にハマっていたりする。
しっぺ返しは突然来る。
自分の不甲斐なさに呆然とする。自分の存在も役割りも全部否定したくなる。
そしてもっと怖いのは、
経験を重ねているうちに、自分が無意識にしっぺ返しを回避する方向に動いてしまい、
卵の殻と戦うことをずるずるとやめてしまうことなんだと思う。
やめないけどね。
一番大切なのはやめないことだよねっと言うと、「あー」という人と「え??」という人がいる。
滞らずに続けることは、大前提なんだよね。
人生に何を求めるかは、それぞれで。
わたしは「微熱の中で震える自分」を求めてる、気がする。
それが創作であったり、大切な人との関係性であったりするわけで。
しっぺ返しを実感できたときは、ある意味幸せだと思うよ。
自分の洗いなおす部分がクリアになったってことは、
捨てる勇気と磨く無我夢中を選べば済むわけで。
問題は。実感もできないときだワ。
20代のみぃちゃんが、自分が読んでいた本をわたしにも読んでほしそうにしてた?から。
読み終わったら貸してネと約束した。
(こういうのは《サイン》のひとつだって気がするの)
んでね。イザわたされたときには洩れなく他に4冊ついてきた。笑笑っ・・・・・・
今どきの少女小説。突っ込みどころ満載だが、嫌いではない。そしてね。
そっか。みほさんがわたしの書く台本をときどき「カユイ」という部分は
こういうところなんだろうなと、(>_<) 冷静に向き合う。
否定しても無駄だし、居直るのも不毛だ。
そしてこのカユさが持つ媚薬な役目も、確信犯として扱えるようになっておきたいなと思う。
(んん。これは居直りのうちかな?)
(今後の匙加減の目盛りを少しだけ自覚できた気はしてるんだけど、さてさてさて?)
この手間隙で得た、自覚/セルフプロデュースなんて、かくもわずかだ。
でもしかたない。それを気長に積み上げるしかないのよ。
だから最近、意識しているのは。
他人をみてイタイと思ったコトを、自分に当てはめてみること。
昨日みたパフォーマーが、実は長い長いスランプというトンネルから抜けられないでいることをわたしは気付いている。
他のファンの子と話してると、案外気づかれていないみたいなので少しびっくり。
かなりのスランプであってもその意味では、怖がらなくても大丈夫なのかもな、と思う。
玉石混交という言葉が浮かぶ。才のある人なのだ。
ただかれはどこが玉で石か、気づいていないのだろうな。
そして自分という宝石をどんな技術で魅せるのが、最適か。
わかってるんなら言ってあげれば?って思う人もいるかもしれない。
でもね、むずかしいのよ。
他人の言葉でその人らしさを活かすってことは。
その人が(いろんな理由で)他人の言葉を拒んでいるときは、特に。
たとえばわたしの経験から、かれにヒントを伝えることはできるかもしれない。
でもそれは、かれの持つ(これから花開いたかもしれない)世界を封じることになるのかもしれない。
うん。難しい。
ただ、いよいよかれに、もしかしたらわたしの言葉が必要になったら。
そんな《サイン》な機会は来る。かならず。
(昨日は、違った)
だからわたしは《待つ》というスタンスを守る。
――こうして書いて気づいたけれど、わたしは何人を《待って》いるんだょっ? ったくぅ。
そして。ここに書いた言葉を、自分に向けて読み返す。
わたしにご神託をくれる巫女はいない。
他人に向けて書いた自分の言葉で、自分を煮詰めていくしかない。
わたしの中に、宝石はあるかな? ひとつの世界。
その先に、何がみえるんだろうね――
きのう見せてもらった宝石のカケラ。
あれを盗んでわたしの創作にしてしまおうかな。
たぶん大勢が見たがる、
他人ヅラをしながら心底共感したい、世界だった気がしてるんだよ。