詩集の読み方ってわからない。
なので、
辺見庸『眼の海』 を机に置き、一日に2-3編ずつ読んでいる。
じりじりとなかなか進まない。そういう読み方を選んでみた。
かれの言葉は純化され過ぎていて、どこからこの言葉が出てきて組まれたのか。
まるで見当もつかず。
意見ではない。現実からも遠い。たぶん、魂で描写しただけなのだろうな。
そんなふうに考え、考え、
透明で青青しくて、少し海の味がする、言葉の群れを。
くちびるの縁で味わう。
絵画だったら、抽象画。
舞台だったら、コンテンポラリーダンス。
自分とは異質な、他人のエネルギーが、爪の先で、わたしの表層を、うぶ毛を逆立てるように、なでるのだね。
辺見庸さんの著作を始めて読んだのは、
ドキュメンタリーレポートとでも言えばいいのか。
世の中の似た部分を似た意識で掬いとるのに、至る結論がわたしとは真逆である不思議。
読むのが苦労だったんだよ。
なんで、そういう導きになる?って、いちいち足止めをくらう。
個の意識の差、というより。
個の意識の表層の差、を、意識させてくれたというのかな。
真逆な価値観を、敬意を払って受け入れたい、みたいな。
しばらくして。次に読んだのは小説。こちらはサラサラすんなりと受け入れられた。
そうね。いずれ映画も観てみなくては、ね。
で。この人はいったい何なんだろうかと、長く長く思っていたけれど。
ようやくわかった。
つまり、詩人、だったの、ね。
夕べ読んだ詩は。
あ、これはわかる。言葉でガレキを組んだんだって。
砂丘のようにどこまでも続くガレキの山の前で感じた、言葉にならない自分の中の惑いが、
連なるページの中に再現されていた。と思ったの。
この想い。見えない穢れに犯されたガレキの山の哀しみ。原点。
その痛み、の共有が。
何故、世の中ではこんなに難しいのだろう。と、今でもわたしを痛めることも含めて。
言葉も思考も失った、海が去った後の、空の色が漂う、あの空間。
そこに居続ける人々。いのち。生活。時間。
(あらゆる意味で)避ける人々。(あらゆる意味で)利用する人々。(あらゆる意味で)哀しむ人々。
あらためて、届けたいのかしら? 思い出してほしいのかしら。
このガレキは何によって造られているのか。
そしてガレキの山は、
人々の間に、延々とした壁を作っている。
だが多くの人々は混迷の中で、あんまりその壁を意識していないみたいで。
ベルリンの壁について、嬉嬉として語ったであろう人々が。
壁の向こうとこちらで、大声で、届かぬ言葉を叫んでいる、みたいな。
うん。
届かない時点で。それはもうすでに言葉ではないのにね。
隣人以外の誰も、あなたを褒めないのにね。
壁が見えないのか。見ようともせずに。見ないことで、自分の責から外れられると思い違いができると信じているのか。逃げられると思いたいのか。
ケガレたガレキを。壁を。痛みとして取り入れるって、どんなことだと思う?
ううん。
そんな問いすら、詩人は拒否しているような。
詩の中で、壁は収束に向かって。
割れて、崩れて、洗われて、夜の海になり、砂になり、している。ような気がしたの。
諸行無常。だけどその中で。
人は波にかかとを洗われながら、立っているはず。
あなたは哀しい笑みを湛えた瞳で見返しながら。
未来を想い、羽ばたく、はず。
そんな風景が見えたんだよ。