あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

数値化の説得力

以下の長文は、半ば愚痴だな。知ってほしいというより、わたしが書いておきたいだけかもです。

 

 

多摩美校友会で理事をしている。今年で4年目。任期は8年。

 

先日。次年度に向けて、わたしは自分らしくない選択をした。昔の自分だったらたぶん、両方がんばったんだろうなぁ。え、これでよかったのか?と、ときどき思い返すが、胸に手を置いても、後悔している感触はない。

そんな自分にいくぶん戸惑っている感は、ある。

 

 

Facebookのおかげで大学のサークルの友人たちと再会し、その後もときどき一緒に遊んだりして。で、その中の何人かが、母校の校友会理事をやってたわけだ。

友人のひとりが手掛けてたのが、「出前アート大学」。地方の小学校に出向き、著名な卒業生が講師となり、特別な図工の体験を提供する授業。なにそれ楽しそう。わたしもやりたい!

 

奇特にも理事をやりたい!と口走った後輩を逃すテはあるか?と、やさしい先輩が奔走してくれ、執行部による面接という運びになった。(ふつうは面接なんかやらないらしいんだけど)その席で、「出前」事業は希望者多いし、ほかの部署になってもいいかと問われ。まぁそこは勢いで、はいと応えたわけだが。

 

まじ別部署に配属された。

あそこで返事しちゃったしなぁ。仕方ないか。

「出前」の会議にはオブザーバーとして参加させてもらいながら、きちんと「グループ活動助成金」の事業と向き合った。

 

でさ、まぁね、いろいろあった。当時の会長に振り回されて。かれがやりたいという新事業についてのレポートも書いたし、ただ、そこでひっかかったのが、ほんとにそういうニーズあるんですか?という疑問。会長がそう思い込んでるだけじゃなくて?

そのあとのすったもんだは、書くと長くなるので、また別の機会に。とにかく、その計画は頓挫した。させた。

 

 

次年度。こちらにお伺いもないまま「グル助」委員長を任された。え? あ、でもそういうことになるのか?みたいに受け止めて。(根が呑気です)

つまり味噌っかすみたいに扱われてる部署だし?ってことか。

 

引き継いだことを少しだけ発展させ、やれることをやった。気持ちばかりの(予算が低いんだもの)助成をしたグループ展に、できるだけ出向いて、個人からの話をうかがうとか。

そして、無理のない範囲でと、アンケートのお願いを始めた。卒業生たちの認知と、実際のニーズが少しは汲み取れないかなという発想で。うん。前会長の夢の実現は阻止したけど、想いはまずそんな形で、引き継いだってところ。

 

あ。同時に「出前」事業にも、掛け持ちで正式に参加した。この年は、地元小学校ひと学年に、大学の卒展を鑑賞してもらう授業を担当した。前例のない事業で、たいへんだったけど、楽しかったし、感慨も深かった。

 

 

今年度もいろいろ大変で。わたし自身そろそろ、ふた事業の掛け持ちがつらくなってきたのもある。他のメンバーみてても、理事なんてボランティアなんだから、無理したり、正業に支障が出たりしちゃダメでしょうとも感じた。

というのもあってか、先日、役割分担整理の意向アンケートがきたとき。

わたしは、

 

「今後、××××××××××××××の可能性等を視野に入れるのなら、【出前】の活動にかかわり続けるのは難しいかもしれないと覚悟しています。【出前】をやりたくて参加した理事会ですが、これも流れであると受け止め、卒業生たちの活動支援に回ります」と書いた。

 

昔の自分だったら、両方がんばっただろうにと書いたのは、このことです。

 

そっか。あのときのいやぁな感触を、断腸というのかもしれない。

 

3月の理事会は、感染予防のため当然、中止。かわりにメールを使った議事進行となりました。

ほんとに承認でいいんですか?と事務局長から念を押されました。わたしの「出前」活動愛は、浸透してたみたいですね。

 

 

 

 

そんなこんながありましたよ。

そして、表題についての実感は、この先なんです。

 

今年はアンケートの回答をまとまった数、得られたので、集計・グラフ化しました。卒業生たちの考え・感触が、少しは数値化・視覚化されたわけです。

わたしとしては、来年度の「グル助」活動の指針のつもりでしたが。

 

あれ?

 

いつのまにか、来年度校友会の主要事業に格上げされたみたいですよ。へぇ?

 

 

他の思惑からの流れも推量できなくはないですが、あの集計が説得材料として発揮した手ごたえがありました。数値化・視覚化・言語化、大切だわ。

 

 

というわけで、わたしの残りの理事活動が、路線変更してしまったおはなしでした。

 

 

 

でもなぁ。「出前」でひとつ、やり残したことがあるんだよなぁ。

今は「アート・デザイン」の授業としてるけど、そこに「パフォーマンス」を加えて、演劇舞踏からの授業をしたいのよねぇ。

 

状況によっては、うん。今後の状況によっては、だわね。

 

 

 

 

『サンセット大通り』稽古場リポートしましたよ

わたしの名刺には、LINEのQRコードを入れてあるの。

今回ホリプロさんのご依頼はそちらをたどってきてたし、なんならその後の日程等打ち合わせもライングループで、でした。時代だわね。

 

 

↓↓ こうしてみると、文字が多いわ。全4回では、足りなかったです。

 

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稽古場の片隅にひっそりにこにこと座って、メモをとる。スマホのシャッター音を立てない撮影アプリで、参考写真を撮る。まぁ、そのへんは以前と変わらず。

 

このあたりは記事に描けないナと自主判断する内容、実は山のようにある。や、ホントウはみなさんが知りたいのはそのへんだろうけど、それ描いちゃったら役者さんのほうが圧倒的にやりづらくなるから、ごめんね。

vol.4の2段目は、優也くんサイドのスタッフさんとたまたましゃべる機会があり、探りを入れたら否定されなかったので、過ぎたことだし、もういいよね、と記事にしました。(今回はじめて優也くんを知りましたが、楽しみな役者さんです)

 

 

稽古場リポートの目的は、販促で。その中で何を描くかは、わたしに任されるわけですが。

わたし個人としては、作品の楽しみ方の角度をふやしてほしい。なので、今回に限らず、演出家さんの出番が多くなる傾向はあると思います。あとスタッフさんとか。

 

今回、オケ入り稽古の日に、興味本位でごめんなさいねとギター奏者の方にお話を伺ってて。おおー。めっちゃ記事にしたかったんだけれど。

感染予防にむけての一段がなかったら、入れられたのに。

 

優先順位のせいで、描けなかったことも多いわ。

 

4本のギターを弾き分けてらっしゃってることとか。(その場で、音の違いを弾き比べてくださったの!)

後ろから見てたら。ある曲では、ずぅぅぅとお休みしてて、一音だけポロン♪と弾いて、またずぅぅぅっとお休み、とか。ウェバーの楽曲の厚みは、そんな贅沢さにもあるのだなぁと思ったし。

 

 

 

 

さて。

 

今回。リポートする自分が、実はめっちゃデリケートな立ち位置だと気づいたのは、2回目あたりからでした。

 

このミュージカルは、主演の固定ペアがWキャストで、特にノーマさま役のおふたりは、(たぶん)それぞれの解釈を大切にするために、お互いの稽古を「観ない」ことが前提になっています。

なのに。

わたしの稽古場リポートに期待されてたのは、ふたりのノーマの違いの言語化

 

せっかくおふたりが、相手はどういう人物像に組みあげてるのか観ないようにされてるのに、それを、わたしの記事がぶち壊すんかい。だれか、稽古場リポートは読まないように言ってくれてるのかな? や、言ってないよね、察するに、ええー?

 

表現に、悩みましたよ。そりゃね。もーかなりよ。この描き方だと、とーこさんは、めぐさんは、どう思われるだろう、うぎゃあっ、的に。

 

最終的に演出家さんチェックが入るから。を前提に、少しはみ出し気味にもっていって、でも思ってた以上に大きな修正はありませんでした。ありがとうございます鈴木さん。

 

 

 

実際の公演は残念なことに、コロナ自粛のせいで、半分も公演できませんでした。それでも、半分は公演できた!とも言える。(コップの水理論?)

 

いつかまた、このプロダクションで公演できますように。と思います。アンサンブルさんたちも個性派ぞろいで素晴らしかった(個別に拾って描きたかった)し。

チケット取ったのに観られなかった方々。ほんとに観ていただきたかったです。

チケット取ってなかった人、今度あったら観てね!

 

 

 

vol.3の副題とした「その愛に打算はあるのか」。わたしにとって、これは大きな大きな発見でした。

 

恋人に対しては、やっぱりどこかで打算の余地は残るけど。

芸術に対して、打算はないでしょう。ノーマやマックスの、いわば映画への献身に、尊敬を抱いた瞬間、わたしは震えたわ。

自分に対する正直。追求すれば世間からは、はじかれる。では世間の中でともに狂騒することが、生き方、か。そんな幸せをみんな夢見るわけだから、そうなのでしょうね。

でも、ほんとうの喜びに近づけるかは、別。

台本読んだだけでは気づけなかった。役者さんの肉体を通して、はじめて感じられたこと。

 

そういう揺れがね、やっぱり演劇の感動だと思うの。

 

 

 

たぶんこれから、時代や世間の価値観が大きく変わっていくと思うの。資本主義さえ揺るがすかもしれない。

でもその中で、演劇は変わらない。同じように素晴らしいはず。

 

大切に、愛していきたいわ。

 

信用するとかしないとか

去年の台風騒ぎの時も感じたんだけど。

 

世の中の人はつまり、世の中のことを完全に信用してるってことなんだろうか。

どうせ誰か(上の人?)が何かをしてくれるからって、信じてるの? 

や、それ以前の、ただの無関心?

新型コロナの一連の騒ぎに対して、わたしはずっと、え、去年までインフルエンザをなんだと思ってたの? どう認識していたわけ?と、まず感じたんだ。

 

家庭の防災対策、

冬場のウィルス対策。

してなかったんかい。日本中のみなさんは。

 

 

と思う。

(そりゃうっかりもあるけど、防災意識があったらトイレットペーパーの備蓄は基本です)

 

 

社会なんてあやふやだし、できることは日常から自分でしておかなくては。という人も、ちゃんと多いと信じたい。

(たぶん、そういうタイプはSNSで騒いだりしない。注意深く傍観して、巻き込まれないようにしてるのだと思う)

 

 

 

さて。この1か月で学んだこと。

 

・集団ヒステリーに陥った人には、何を言っても無駄。

わたしには論点がズレてるとしか思えない「記事」で反論してくる。はいはい、もう勝手に混乱しててくださいと思うことにした。(ごめん)

 

・行政は、真実とは別のところで動く。

なので、たとえば父には、新型コロナの実際とは別に、外国と足並みをそろえるための戒厳令が敷かれる可能性がなくもないので、今の政府はそういうズレた判断行動をしかねないので、備蓄とガソリンは切らさないようにと注意する。

 

・論点をずらしてでも、マウンティングを優先して発言する人がいるので、プロもマスコミも。なんのために発信しているか見極め大切。

最初、「(免疫を落とさないために)ぬるま湯を飲んだほうがいい」と注意喚起されてたのが、「ぬるま湯でウイルスが死ぬはずない」と(たぶん西洋医学しか勉強してない)お医者の言葉の記事が出回り、やがて「27,8度って、体温より低いお湯でウイルスが死ぬって頭の悪いデマがあるんですって。イヤねえ」と会話されてる案件。

や、ぬるま湯は、飲んだほうがいいと思うよ。からだ冷やさないために。口内の雑菌を胃酸まで落とし込むために。と相手に言いながら、わたしは誰のために何のために今、訂正してるんだ?という想いが、ふと横切る。

 

ここで大切なのは、西洋医学オンリーのお医者は、間違ったことは言ってないこと。でもそのせいで、大切な予防が否定されてる。

東洋医学も学んでるお医者だったら、同じことを言ったあとにたぶん、でもお湯は飲んだほうがいいですよとか付け加えただろうに、それだとニュースとしてのインパクトが低いんだろうな。

 

という判断を、素人な自分でもできるのは、過去、インフルに対しての知識があるからだと思うの。

知識の積み重ねが、知恵になる。

 

そして、この流れの後ろで一番活躍しているのは、TVのワイドショーやネットニュースなんだろうな。視聴率・閲覧数という資本主義のひずみの奴隷。世の中の安寧よりも、あなたの健やかなほんとうの幸せよりも、ショッキング(常識の否定)が大切な人たち。

それともあの人たちは、自分たちは信用されていないことを前提に、自由な発信をしてるんだろうか。えー。悲しくないかぃ。

 

(TVが流す、したり顔の大ウソなんて、わかってるはずなのに、腹立たしいのは、わたしがどこかで人を信じたい気持ちをまだ残してるからなんだろうねぇ)

 

(あー。こうして書きだしてると、芝居が一本、描けるネタだわ)

 

 

 

 

 

地方では、コロナ陽性がフィリピンパブ(まだ日本には、こんなんがあるんかぃ!)に「菌をばらまいてやる」と遊びに行って、すれ違っただけの女の子に陽性反応が出たとか。真実はどうか、続報を待ての状況なわけだが。

ね、わかるかな。

このひとりの馬鹿が、今、たくさんの劇場が重ね上げてる膨大で緻密な努力を、一瞬で崩壊させたんだよ。

 

わたしは『サンセット大通り』の稽古場リポートで、「たったひとりの不注意が」と書きながら、「そういう」存在を意識した。不注意ではなく、わかって来るヤカラがいる可能性。ゼロではない。

背筋が冷たくなった。

人間は、恐ろしい。

その恐ろしさと、劇場は、興行主は、演劇人は戦わなければいけないのが、今なのか。

 

 

だけどわたしは「たったひとりの不注意が」という言葉を、選ぶ。「そういう」存在を意識しながらも、あえて使う。言霊を信じて。

甘い幻想。うん。だけどね。

 

 

それでも、幕をあげたい気持ち。祈り。がある。

炎は消せない。(消えるはずもないが)

出来ることを積み重ね、最後までチャンスをうかがう。それしかない。

ただ、気持ちを折ってはいけない。それだけは我慢しよう。そう思う。

 

 

負けちゃいけないとか、

安易に言ってほしくないです。戦っている相手は、いつどこから立ち上がってくるかもしれない、そういう無邪気な悪意も含まれること。無視できないこと。

そこは想像してほしい。

 

 

なのに。

そんなこんながあっても、どんなことがあっても、人間は素晴らしいと信じたい。

それがエンタメの役目なのだから、

 

たいへんよね。

 

 

 

結局。みんなで頑張ろうとしか、言いようないのかしら。

みんなでがんばりましょう。

 

 

#春は必ず来る

 

 

 

ゴドーに迷いながら

かなり前にキッカケがあって、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の写経(劇作家用語)を始めた。

あとで理由を書くけど、途中で長い中断があり、最近復活して、現在また手が止まっている。(ので、珍しくブログ書いてるw)

 

 

写経といっても、台詞をそのまま書き移すのではなく、脳内キャストによって現代の話言葉に変換され、その勢いを書き落とす。ト書きはママ。

 

ちなみに、日本語訳しかテキストとしていない。英語だとどういう言い回し? この単語と単語は同じじゃなくていいの?となっても、そもそも英語に昏いので。調べても、たかが知れてる。

 

 

さて。

めちゃくちゃ楽しいのは、写経することで、読んだだけではわからない、作家の意図がみえてくること。

 

日本では不条理劇として哲学性を評価されてたと思うけれど、実はベケットは、正統派演劇をいかに「壊すか」に心を砕いると感じた。

楽屋落ちネタが、すっごく多い。

で。たぶんそれが、今ここ(舞台上の世界観・リアルな板の上・人生の象徴など)にいる自分らの存在意義を、結果的には問うてくるから。深い哲学とも読める。

一方で、情に訴えかけるシーンや、詩的な美しさもあって。

 

何十年か前の上演版では、コントとして演じるべきだと解説されたのも、ようやく少しわかったかもしれない。や、だったらもっと、同じ地平線に降りた芝居をしたほうが、おもしろかったのでは?とか感じたりするけれど、まぁ、昔のこと過ぎて、言い切れないわw

 

とにかく、遊び場な作品だってことは、間違いない。

 

 

 

言語学の研究者でなく、劇作家の端くれが書き落とすので。

英語ではそうなのかもしれないけど、遊びたいのはそこではないのでは?がたくさんある。

たとえば、台詞に「イギリス人は」という箇所があるけれど、当時のアイルランド人にとっての「イギリス人」は、現在の日本人にとっての「イギリス人」とニュアンスが違うんじゃないの?と思うから。

とりあえず「山の手の人は」に置き換えてみる。たぶんこのシーンでゴンちゃんがうひひと笑いたかった感じに近づいた気がする。

 

そう。愛称は、ゴゴとディディではなく、ゴンちゃんとミルくん。

これはキャラたちが勝手にそう言い始めたのよw

 

 

さくりさくりと書き進めるうち、ポッツォとラッキーが出てきて、わけがわかんなくなってきた。ゴンちゃんやミルくんからみたかれらの社会的な立ち位置みたいのはわかるけど、全体がなんかしっくりとしない。

今の日本社会、格差があるといっても、一目でわかるとか、全員の意識下に根付いてるとかいうほどでなく、

ゴンちゃんやミルくんはたぶん、年老いた外国人労働者っぽいわけだけど、

え、ええー。

 

思いついたのは、ポッツォを女性にすることで。帽子を脱ぐシーンが気の毒だけど、スキンヘッドだったらこなせる女優さんいるかしら。。。とか。

ならばラッキーは若い男か。や、何十年のつきあいという台詞はあるけど、まあファンタジーな処理で?

 

 

と。無理やり、少しずつ書き進めてたけど、ラッキーの長台詞を前にして、完全に、動けなくなった。

ポッツォとラッキーは、なにを語りたいんだろう。わたしには見えていないバックボーンがありそうよ。

 

 

 

はい。仕事でも強制でもない、いわば自主練ですからね。作業は中断。

 

 

 

 

 

ある日、SNSで。

場所を高校の学内カースト(なるほど)に置き換え、ポッツォとラッキーは女子高生の設定とした高校演劇がある。と知り、(やだなに、めっちゃおもしろそう!)

 

そうか。ラッキーは負け組・文系女子かぁ。(←すでに勝手にイメージ)

 

 

ちょっと、自分の中が動いた。

 

 

けど、あの長台詞の処理がね。見えない。闇。

狂った知性。

過去観た舞台ではいつも、若い役者さんの超絶努力に対して、うれしくなって拍手するって捉え方だったけど。違うはず。

ゴンちゃんやミルくんは、うるさ~い! ぽかすか! だけど、

ポッツォにとっては、なんかもっと許しがたい成れの果てだったはずで。。。

 

 

えーと。

 

 

 

かくして作業は長いお休みに。

 

 

 

 

ん。ラップ調だったら?

 

 

もしくは、デスメタル???

 

 

 

 

 

なんとなく、腑に落ちた。

作業再開。これが二週間くらい前です。

長台詞も、それを前提にしたら書き換えられるようになり、格調は失せたけれど、繰り返されるエコーのような面白み、くだらなさが浮かんできた。

 

はぁ。

 

これは、こういう台詞だったのか。

 

 

 

そのあとは、めっちゃサクサクと進む。たぶん、ベケット自身も筆がのってたんだと思う。

 

 

 

で。

今度はどこでつまずいたのかって?

 

ゴンちゃんが叫んだ。「黙らせて! 少しくらいなら、なぐってでも」

(原文/黙らしちまえよ。横っつらを張ってやりゃいい)

ん?

だめじゃん。絶対。女子なぐったら。。。

 

 

え。どうする?

 

 

今の妥協案は「黙らせてよ!」だけにして、

ミルくんはポッツォをなぐらず、服をひっばる。とか。

 

 

まぁ。わたしの脳内で、ポッツォはゴスロリか姫系の、たっぷりして身動きとりづらい衣裳なので、成立は、する。

 

 

ん。これでよしとして、先にすすむか。

o(ΦωΦ)o

 

なう。

 

 

『スチュ』のついしん

書き忘れ。

世田谷パブリックシアターの凄さ。たぶんだけど。


メアリ・スチュアート』では、不思議な構造で舞台を使っているのだけど、

どんな角度でも、役者の声が自然に聞こえた。


なんなら階段の下、まだ姿も見えず、背中を向けてるはずなのに、そこからの声が違和感なくそこから聞こえる。

当たり前すぎて、不思議に感じられない。から恐ろしい。

客席に背中を向けても、声の聞こえ方は変わらなかった。


ノンストレス。



恐ろしいコ。。。