あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

熈代祭『能をモチーフにした舞踏』

@ 日本橋福徳神社横の仮設ステージ
by 森山開次×佐藤健作×木ノ脇道元

 

観劇の帰りに、お気軽に開次さんを観に行ったら、とんでもないモノに心を持ってかれましたよ。

開次さんが人外の存在と化すのはいつものことだけど、お能で舞踏で奉納神楽で軽業で大道芸の総括だった! と思う。

 

ビルに囲まれた簡易スペースが。お能の舞台で終盤、空気がとろりと濃くなって、金色の繭みたくなる、あの感じになりました。

 

f:id:atelier-agen:20171106021508j:plain

f:id:atelier-agen:20171106021535j:plain

↑↑ 写真、切れちゃったけど、右側では丸太を自然落下+バウンドさせることで、太鼓を奏でてます。

↓↓ 太鼓(移ろい変わる)3種と、右の闇の中にフルートがいます(日本風のかすれとか息とか揺らしとかいろんな奏法を駆使してらしたっ!!!)。

f:id:atelier-agen:20171106021554j:plain

f:id:atelier-agen:20171106021613j:plain

開次さん、太鼓の上でステップ踏んでた。なので太鼓ががくんがくんとズレる。

でも太鼓奏者さんの音は揺るがない!

f:id:atelier-agen:20171106021629j:plain

大道芸の軽業って、人外の表現(精霊?)でもあるのか?とか思う。

キレイで不思議な生き物だったなあ。

 

そうだ。わたしにとって、お能という扉を開いてくれたのは開次さんでした。

→ そのときのブログはこちら

上野ヘブン2017

※ これの前の文章で、赤の他人のことでなんで自分がキズついているんだろう?と書いたけれど、訂正。

そのダンサーが頑なな思い込みから自分を解放できないことにキズついているのは、わたしではなくプロデューサーだと気づく。わたしはかれが人知れずキズついていることに気づき、共振したのだと思います。

 

 

さて。三茶de大道芸が台風なら、一週間後のヘブンアーティストTOKYO@上野も台風でした。もう笑うっきゃない。

というか白状します。

台風の大道芸フェス。萌えるものがあります。

台風なので判断はそれぞれに任され、パフォーマンスはやりたい人だけがやる!ので、大雨の中でもパフォする心意気に、拍手したいのです。

というわけで上野も、三日開催中二日も行ってしまいましたよ。(雨が降らなかった初日は上京した友人と渋谷でぶらぶらしてました。センター街でハロウィン予備軍みたよ~)

 

一日目は、めりちゃん見て、森田さん見て、わびさびボーイズ見て、帰り際にSHOくんの最後の数分見ました。

 

 

 

二日目。

 

最初にU-stageに会いに行く。福島ツアーの写真を手渡しに。

でもちょうど終わるところで、写真撮るの忘れちゃった。


ハッピーメリーサーカス。ちょこちゃん、かわいい☆ 

 森田さんの乗ってる黄色いバルーンの中にはジェンさんが入ってます。

f:id:atelier-agen:20171103115010j:plain

わたしは森田さんのからだがパフォーマーとして進化してきたと思うのですが、橋本Pとは意見が分かれるところ。

というか橋本さんは、森田さんが生まれ変わらないと日本の大道芸ジャグラー全部の意識が低迷したままだと考えてらっしゃるみたいで、評価がキビシイ気がする。

 

ユキンコアキラさん。

f:id:atelier-agen:20171103115023j:plain

1枚目の絵、誰も手を挙げないからわたしがもらいました。

実は絵をいただくの初めてで。雨の中、かわかさないで丸めたから、家に帰ったら絵具が乾いてくっついてて。

びしょぬれの服をぬいで、半裸のまま。水のスプレーとカッターで絵をはがしました。それでも傷だらけになっちゃった。ん。それがいい感じの風合いだともいう。しずくで絵具が流れてたりもしてるし。

とりあえず入れパネに。

f:id:atelier-agen:20171103115118j:plain

以前から思ってんだけど、クレヨンで入れるタイトルの収まり、わるくない?

二枚目の作品。
f:id:atelier-agen:20171103115037j:plain

カルトンが倒れて絵がでろでろになり、かえっていい絵になったと思うんだ! ご本人は不満げだったけど。新しい気づきにつながりそうな気がしたの。

 

ゴールデンズ

今年の三茶de大道芸の当日は大駱駝艦(ゴールデンズ)のアテンド・ボラでしたが、全然違う方たちの踊りでした。

なんか説明的な振り付けで、オブジェとしてはおもしろいけど、踊りとしてはどう評価すればいいのかよくわからなかったな。最後にゴミ袋やぶって出てくる方は、肉体が言葉を持ってた。

f:id:atelier-agen:20171103115053j:plain

 

まわりみち。

ヘブン審査通過おめでとうございます。

f:id:atelier-agen:20171103115107j:plain

剣を突き刺す王道マジックを、傘と段ボールに置き換えて。リズムとスピードがあって、みんなを驚かせたい笑わせたい楽しませたい精神が旺盛で、

このときも気持ちよく大笑いしました!

大道芸系カメラ男子たちにお願いします

関係ない他人のことで、なぜ自分がこんなにキズついているのかわからない。帰りの電車で目を開けたら、涙ぐんでいることに気が付いた。

 

以前大好きだった大道芸人のショーを久しぶりに見た。客にダメにされていく様子を見てられなくて、ズット遠ざかっていた。ご本人はほんとうにこれでいいと思ってるのかな。思っていた以上にありきたりのツマラナイ踊りだった。(雨だったから、インプロだったから、ショートバージョンだったからではなく、何も語らない閉じられた肉体と化していたよということです)

SNSではそのショーを見た人たちが、よかった!かっこよかった!と喜んでいる。はあ、そうですか。そんならそれでいいのかもね。

 

ショーの直後。離れた場所で、わたしの泣きたい気持ちを説明したら、ああなんとなくわかりますよと受け止めてくれた友人がいた。

それでよしとすればいいか。

たぶん一晩寝れば、わたしはこの哀しみくらい忘れる。

 

 

フォトジェニックなダンサーさんなので、アマチュアカメラ男子のファンが大勢つきまとっている。パフォーマーの心は危うい。期待に応えてしまう。
写真うつりを意識したポーズにしか意識がいかなくなった。昔からの技術で、なんとなくそれっぽい、奔放で自由な振りはできる。でも本物のかの女は消えた。踊る心が後方に押しやられ鎧に覆われた。観ているほかの客の目を、心を、感じることを忘れ、空気を温められなくなった。

と思う。

 

カメラ男子たち。レンズを置いて、ナマのかの女にナマな反応できないかしらね。それが大道芸なんだよ!

ご本人もじじぃたちを、シャッター切るのを忘れさせるくらいに自分の世界に跪かせてしまいなさいよ! そのくらいできるでしょ?

と思うんだよ。

 

 

 

もうひとつ。気になったこと。馴染みのファンの方たちだと思うんだけれど。

やさしい大道芸人が気安くお返事してくれるからって、親戚のおじさんみたいな態度やコメントはいかがなんでしょうね。 

あなたたちにできないことができる人に対する尊敬をせめて持ち、態度にしましょうよ。礼儀です。

 

あなたならどうする?

こんな夢をみた。

 

その村はなにかのイベントらしい。ざわついている。そんな日に、迷路のような建物の中をわたしはあれこれと思いついては、さ迷っている。しなければいけない作業もあるようだ。

その中でわたしはひとりの子どもと2回、すれ違う。なぜか黒いかっきりとしたアイメイクをした幼い少年。

かれはどうやら造形的な才能と個性に秀でているようだ。だがアートには無知な狭い地域で育ってるゆえに技術はひどく稚拙だ。

夢の中のわたしは反射的に、広い世界のいろいろなアートをかれに体験させたら、必要な技術と素材を与えたら、どうなんだろうかと感じる。このまま世間に知られることなく埋もれさせておいて、いいのか。おそらく経済を動かすアーティストになれる気がする。

「ねえ」

2回目に会ったとき、わたしは少年にかすれた声をかける。黒いアイメイクが無表情にわたしを見返す。

「ねえ、もっと……」

 

と、目覚ましで起こされてしまった。

 

 

 

(-"-)

 

 

目覚めてからずっと、わたしは考えている。

夢の中でのわたしの反射的な考え方は、正しいのか。資本主義的な思い上がりではないのか。

かれは村の中で、世の中のことは何もしらないまま「狭く生きる」ことが幸せだし権利なのではないのか。 

 

『レディ・ベス』

my初日(今季公演で初めて観た日)までほかの情報を入れないようにしていて、解禁してから観たのはあやちゃんの初日カーテンコールの映像で、my初日に拝見した花さまとは同じ役なのに全然違う佇まいで、もうびっくりで、そりゃ来月観に行くまで待てなくて、ぽちっともう一枚チケット買って観ましたとさ。

三茶de大道芸でがんばったご褒美とかなんとか、自分に言い訳☆

  

で。

その日は選挙の数日後で、朝からこんな記事(の途中まで)とかほかの人のいろんなコメントとかをネットで読んでいたので。

エリザベス一世と姉メアリーの確執 イコール プロテスタント(この作品ではイングランド国教会とはしていない)vs カトリック の追突が主軸のひとつであるミュージカルを観ながら、

なんとなく、リベラルと保守の対立を重ねてたのでした。(んなのは、わたしだけだよなぁ~とか思いながらw)

 

舞台では(保守派?)メアリーを否定してるけど、今の日本国民は安定政権(右派保守)を圧倒的に選んだんだなあ、とか。

ナチスが強い支持を集めたのは経済政策の成功だそうです。嫌な予言ね)

まあ、自己判断という責任からの逃走は日本人の変わらない特質のひとつなわけで、日本演劇は歴史の果てにリベラルというか左派?の啓蒙に失敗したわけかな、とか。

 

なわけで趣旨とは見当違いっぽいけど、べスと教育係のアスカムが自由と平和を願うデュエットに、つぅっと泣いてたりしました。真の意味で自由な、自分に正直な生き方とはなにか、を舞台を通して語りたいのは意味があるのかしら。伝わるのかしら。

無力で、透明な夢だったのね。

でもそこを外したら、わたしが生きてく意味がなくなるわね。

 

 

保守とリベラル。そのキーワードはこのミュージカルを通して、もうひとつ意味を考えさせてくれて。

べス役のおひとりは、生まれながらの王女さま的存在で。幼い少女らしさの役作りに腐心されてて。保守的な役作りというのかな、自分の演技プランだけで動いているので、周囲のキャスト全員が額縁でしかないというか、心が通い合っていないというか。

もうおひとりは、王女らしさを必死に習って身につけたばかりで、所作や気持ちのひとつひとつを丁寧に確かめながら、舞台のほかのキャストと一緒に空気の中に漂い、反応して呼吸して、探り続けてらして。

どちらが正解というわけではない。保守とリベラルのように、別の価値観があるだけなのかなと思えたのでした。ただ、肉体としての説得力は変わってくるように思うのだけど、でも観客のほうにも保守派がいて、支持も分かれるのかな。

 

ふーん。いくくんは昔は後者だったのに、今では前者の役作りになっちゃったんだなとか。(役を楽しんでるのかな?と気になってます)
かなめさんは状況と体調にあわせて、前者と後者を使い分けるよねえ、とか。

 

 

メアリー役も、これでWキャストの両方を拝見できました。

おひとりはベスとの対比という意味でイメージぴったりで、説得力が格別。もうおひとりはそこを必死さでカバーしてらして、けなげな悲しさが格別。

保守派メアリーにロックを歌わせちゃうのが、リーヴァイさんんのすごさだなあ。ん? 今どきはロックは保守分野なのか? 

 

 

長男ヘルと新規アルくん(わかる人にしかわからない符号ですネw)が並んでると、某作品での世代がズレてて共演はしてないのに、勝手にお風呂場のシーンが妄想されて、内心大爆笑☆ スケールでかい奔放なシーンになりそうだわぁ。 

 

 

作品は初演から歌もテキストも大幅に刈り込まれて、テキストとして正解に近づいたような気がします。
べス、そこで叫ぶか?みたいなのはドイツの感性なのかしらと思う箇所はある。

 

アンサンブルさんたちが、もう少し壊れてエネルギッシュだといいのになあ。と実は思っています。テーマソングを歌いながらべスを見送るシーンが、秘めた情熱や怒りを内蔵する民衆の祈りになったとき、作品が別の意味をはらんできそうな気がするんだけれどなあ。

 

 

ちなみに。少女趣味的な妄想があって。
ロビンはおそらくウォルター・ローリー卿あたりのお気に入りの従者になって、べスと再会しそうだな。