あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

『笑う男』

夕べからだんだんと、不思議感が強くなってきたことがあって。

日生劇場売店でバンフレットとTシャツとポーチを買ったとき、ロゴ入りの袋をいただけなかったの。うっかりとかじゃなくて、商品を重ねて置かれたまま「はい」って感じだったので、わたしが「え?」と販売員の方を見たら、「以上です」みたいにうなずかれて。

でもほかの方たちはちゃんとパンフレット用の袋をもらってらして、時間がたつにつれ、「なんでなんで?」になってきちゃった。

 

 

昨日観たミュージカルの感想をこれから書くわけですが!

まだご覧になっていない方は、観てからこの先を読んでいただきたいかなと思います。

作品の持つ致命的な欠点(脚本)について書くから、超ネタばれだし。

作品には欠点を補うすばらしさもたくさんあったので、まずご自分の感性で出会って、感動して、でもちょっと違和感を感じたら、この先を読んでくださいね。観劇は、情報の確認ではなく、あなたと作った人たちとの「会話」です。

 

 

 

ユゴー原作の『笑う男(人)』は、バットマンのジョーカーの原型となったと言われる作品です。なので『ダークナイト』のジョーカーの狂気と哀しみを期待したくなるけど、別物でした。まあテーマが通じる気はするんだけどね。それっぽい曲もあるし。

150年昔の原作を、現代によみがえらせるときに気をつけなければいけないのは、価値観の変遷と、「今」それを社会に提出する意味です。

 

昔と違って今の日本では、基本的に、顔に大きな傷がある方や視界がご不自由な方やフリークに対して「かわいそう」なんて失礼を、公には出しません。「かわいそうがって」眺めるのはむしろ、富裕層や支配層であることがスタンダードです。

この時点で、作品の基本的な価値観がすでに成立してないのです。なのでそのあとに続くどんなお話も、空回りです。

わたしは帰り道、「見事に何の印象も残ってないなあ(個人の見解ですよ!)」と思い、自分でぎょっとしました。細かいステキはたくさんあったけど、大きな何かに翻弄されなかったよなあ。

 

だいたいグウィンプレンを演じるけんちゃんが、さわやかでかっこよくて希望に満ちてて、「ぼくは醜い」と言っても説得力ないし。顔に傷があっても、それだけ健やかでステキだったら、十分に男前! 見惚れるよ!とか思ってしまうし。(祐一郎さんがファントムやったとき、似たようなこといわれたねw や、閑話休題

パパ・ウルシュスとの対立も、反抗期くらいにしか見えなくて。自分が抱える人生、自分そのものへの絶望、じゃないのか、ここは?とか思いながら観てました。(曲は好き)一座は居心地よさげだしね、居場所もしっかりあるしね。それを超える何がほしいの?みたいな。

 

 

演出家さんは「家族愛」をテーマに描きたかったと、ネットのインタビューでお話されてました。

今の時代に向けて、正しい選択だと思います。ただ、その読み替えのためには、もっともっとたくさんの補助線をひいたほうがいいんじゃないのかしらと思います。

そして「格差社会への絶望」というより「放蕩息子の帰還」系の骨組みとして解釈するしたほうが、収まりがよさそうです。(ん? わたしが鈍かっただけで、すでにソッチのつくりにしてあるのかな?)

 

ウィンプレンの内面が、壮大な旅をめぐり、あれやこれやと想いは移り変わり、やっとのことで戻ってきたときに、あの手に負えないラスト(!)が、もう少し違う説得力を持つかもしれない。と思います。

間に合わなかった自分。無力な年老いたパパや、あたたかな一座の仲間たちよりも、デアを選ぶ意味。絶望の果て。憧れへの到達。自分らしい美しさとは何か。で、カタルシスが共感できるように、なる、のかな?

 

あの古風なエンディングは、今もって、どう愛でろというのか、わから~ん! パパがかわいそうだったわね、若いって儚いわね、美しかったわね、を要求されてるのだろうけれど。パパ・ウルシュス、熱望してもすり抜けてしまう無常に対して、もう少し、なんか違う芝居をプリーズ、かも。。。

 

 

 

1幕はね、よかったと思うんだ。

2幕で、特にね、ジョシアナさまについてが回収されてないというか、扱いがひどくない? 

 

アン王女が大好きでした。素晴らしい!

 

子ども買いさんの死体っぷりが美しくて、惚れ惚れでした。マニアック。

 

衛藤さんのデア、とても役割りを果たしてらしたと思います。ステキでしたよ。

本当はね、目がご不自由な方の佇まいって、あんなんじゃない。その所作では、無声映画で哀調をそそるためのお決まりに近いな、とか思うものの、作品の基調に合わせるとそっち選択が正解なのかな、と。これは演出の判断だわね。

 

一座の女たちが、デアを慰めるシーンがステキでした。ほんとうに。いい一座だよねえ。

 

 

で。これは誰もが言うと思うけど。なによりも圧倒的だったのが、お衣裳!

4倍くらいはたっぷりの布を使って、あれはドレープって言い方でいいのかしら? ゴージャスで、アンシンメトリーで完璧な美術品。メット美術館あたりに展示されても耐えうるよね!

だからね、この作品を再演・再再演にもってってほしいの! あのお衣裳たちのためだけにでも! 

 

 

 

公式のツイートで、祐一郎さんが稽古場でよく号泣する芝居をしてるとかあって、「なんで今さらそんな素人くさいことを?」と思ってたのですが。パンフレット読んで、これはもしかしたら?なんだけれど。

稽古初日に、集まったそれぞれの演技方法のバラバラ感?をヤバイとか思った? それで、「一度フルスロットルな芝居をしてみてから、いろんなチャンネルを調節してみる」といいよを、体現したのかなあ?とか。

 

一度フルスロットルで「デアーー!!」と叫んだ身体を覚えておくと、そのあとは100通りの「デア」が言えるようになる。どんなささやき声の「デア」も強く伝えられるようになるよね、ってことなんだけど。

あと、上手に演ろうじゃなくて、少しこわれたほうが客席に伝わるよ、みたいなこととか。

 

あははは。祐一郎さんの、そんな不器用さ、好きです。

(あーでも、指揮者さんへの合図は全身で伝えなくていいと思うよ~)