朝、ベランダでクレソンとパセリを切って、玄関に活けた。
が、夕方、みたらね、
びっくりしたよ。
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そうか。クレソンですら、わたしのよかれとしたデザインに逆らって、自分のあり方くらい自分で決めるか。それが命のあり方なのか。
さっき読んでいた小説に、
信じることは賭けと同じだ。と出てきた。
そうか。と思った。
過去、信じていた人に裏切られて、わたしは誠意をつくしたのに、なぜ裏切られなければいけなかったんだ?とキズつき、
あるいは恨み、
ある時期からはその人を理解しよう苦しんだ。
わたしは裏切られたと思ったけれど、向こうはそう思っていないのだろうな、とか。わたしの無頓着(無償の愛の人だからと皮肉っぽく言われたこともあるけれど、とにかくわたしの、そんなスタンス)への予防線?だったのか、とか。
小説の文章は問うていた。賭けに負けたからと他人のせいにするな。
そうか。信頼したからって、誠意をつくしたからって、その人が自分の思い通りになると妄信するのは思い上がりだ。
クレソンですら、自分の心地よさを優先するんだ。
それでも。
多くの人たちは、信頼を信頼で、それ以上の微笑みで応えてくれる。
その奇跡に感謝しよう。