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(製品価格の50パーセントがユニセフの活動基金になります)
ここにきて、子どもへの支援意識が少し上昇したトリガーは、
『ミス・サイゴン』に出てくるタム/ブイドイ(ごみくずと呼ばれる戦争孤児たち)、から始まって。
病院ボラでは、長期入院している子どもたちを院内教室までつきそうこともします。
「こんにちはー」と挨拶するだけで、ぱぁっと顔を輝かせる子どもたち。
ささやかな時間ですが、キラキラと明るい声で、淡々と病気を語られたり、自分でできるといわれたり、
こっちは「そっかぁ」とさりげなく返事をするけどね。
先日は、子ども同士で甘えたり支えあってたりする様子に――
(わたし、この文章書くのにぼろぼろと泣いてる)
生きる意味や喜びについて、あらためて教えてもらいました。
長期入院してるコが、長期入院してるコの頭を撫でて、勉強をもう少しがんばろうって励ましていたんだよ。
その風景を、わたしは何度も思い返している。痛みの共有という言葉もつきまとう。
(ユニセフには直接関係ないけれど、これはわたしの意識の問題ね)
ユニセフから送られてくる小冊子に、ブータンについても書いてありました。
世界一幸せな国、として知られる一方で。
それが偶像であることも、ネット上ではスッパ抜かれています。
なんにせよ。話題になることで注目をあび、国際支援を集めて、生活水準の向上を目指している政治手腕は、すごい。
その幸せの国の教育テーマは、「学校に行けて、石鹸で手を洗えて、きれいな水を飲むことができる」だそうですよ。
苦労、努力ができる幸せ? 目標が持てる、幸せ。
きれいごとが、幸せをつくる、のかも?
逆を言えば、幸せをつくれないきれいごとをどんなに叫んでも、とか――今の日本。
そして思い出したエピソードを。
わたしの宝物のひとつに、ひとつの石ころがあります。石ころといってもアラバスター(雪花石膏)の原石で、きらきらしてて、そこそこ大きい。いかにも子どもの宝物。
エジプトに旅行したとき、村や民家の見学がコースにあってね。
わたしはたまたま近くにいた、いかにもミソッカスな、小さな女の子に声をかけて、一緒に写真を撮ってもらった。
あとからよくよく思い返すと、
わたしは座ってそのコの目線にあわせて、笑いかけたこと。
日よけに大きな白いベールを(マリア像のように?)被っていたこと。
そのへんがきっかけかなぁと考えるのだけれど。
観光バスに乗ろうとすると、その女の子が駆け寄ってきて、石を差し出した。
他の子どもたちが「1ドル1ドル」と、石ころを売りつけてくるのと一緒かと思って、「いらないのよ(日本語です)」と首を振ったら、プレゼントだって言うの。
なので「ありがとう!(日本語です)」と受け取った。
石ころだからね、それ以上なにも考えずに。
つくづくと考え出したのは、日本に帰ってからよね。
なんで、わたしにだけ石をくれたんだろう。
この石は、あの女の子にとってどんな価値なんだろう。
もしや。
同じ目線の高さで微笑みかけたわたしに、自分の宝物をくれたんじゃなかろうか?
あのコには、微笑んでもらえること、微笑みあうことが、どれだけうれしかったんだ?
微笑みあうことは、宝物、なのですよ。
そんなこんなで。
今の日本のすったもんだ大騒ぎの向こう側を、背筋をのばして眺めようという気持ちにもなるわけですな。
宮城県の小学校で4月、「給食のおかずが2つある〜」と喜びの声があがったという背後の努力(給食センターの復興)についてとか。
キズつけあうこと大好きなネット上言語では、たぶん語られないよなあ。