TVの日曜美術館でちらりと特集を見て、
きゃー! ルソーとモローとルドンの原画〜!? と興奮。
あの絵? あの絵? あの絵も来てるの???
オルセー美術館の改装期間ゆえ、この豪華で濃縮な夢のようなラインアップになったとか。
テーマが「ポスト印象派」。
素晴らしいのは、印象派から始まって、絵画が壁面装飾になっていく歴史の流れが実感できる展示になっていることです。
たぶんこのあと、これがミュシャ(版画家)とかのスタイル=アール・ヌーボーに繋がっていくんだねと予感できます。 すごいよ。
そして、スタイルというのは現在の否定という形でどんどん進化していくんだというのが、よくわかり、ワクワクします。
画家同士の共感と反発、尊敬、礼儀、商売というドラマも。
(以下、わたしの独断と偏見ですので眉毛にツバつけてお読みください)
印象派を見るときに意識しなければいけないのは、同時期にカメラ/写真が発明されたことです。
それまで唯一の視覚的平面情報伝達手段であった絵画が、存在価値を失い、写真とは違う表現としての意味という模索が始まったわけです。
タッチ(筆の跡)を残すことや、淡い光と色を氾濫させることで、世界の揺らぎや時間を描き止める感傷的な画法が出てきました。 (モネとか。 ドガになるとまたチョット違うけど)
その流れでタッチが点描に進化。 (スーラとか)
今回の展示では、スーラ以外の点描派の画家の作品が多く見られるのもおもしろく。
あ、点描という技法は混色によって彩度が落ちるのを嫌って考え出されたことになっているのですが。
スーラはそれによって、陽射しの煌きとか空気感を得て。
ただ、それ以外の画家たちが。
もしかしたら、写真を焼き付けたときの画像の荒れのおもしろさを真似た?とか、
もしかしたら、タペストリー(織り)の平面的な牧歌的なおもしろさを移してみた?とか。
そんな愉快。
タッチのスタイルを真似してても、それだけで終わっちゃってるのね、と。
スーラの書きかけスケッチが1点、これがイラストとして素晴らしい。 (だから書きかけでも筆を足せなくなったのかな???)
さてその一方で、光や空気の揺らぎには背を向けて、モノ(立体)の存在を、時間の変化も含めて描き取ろうとしたのがセザンヌ。
今回の展示の素晴らしいのは、同じエリアにピカソに至るまでの、リンゴの静物画を3点、並べてみせたこと。 セザンヌのこだわりが、遠くキュビズムまで繋がることが一目で眺められます。 (ここは拍手!)
そしてゴッホ。
原画を見て、気持ちが引き裂かれる印象を受けたのは。
初期のこの人は一生懸命、みんなと同じように都会的な印象派風な絵を描きたかったんだ、と感じたこと。 それでもどこかがゴッホになっちゃう。 田舎じみた野暮ったい生命力。
確か南仏にいったあたりの絵から、居直り。 自分の見えてるふうに感じてるままに描こうとハラをくくったんじゃないのか。
向かいの壁がゴーギャン。
この人の初期は、スタイルが都度替わり、スタイリッシュでそこそこに上手な模倣なのね。
ゴッホとの友情が、どう影響してるのかは不勉強なのだけれど、
あるときから突然、田舎くさい自分のスタイルを見つける。 生命感を塊として掴み、キャンバスに盛り上げていくような。 それがタヒチのテーマに繋がっていく。
ゴーギャンから生命力を取り除き、
タッチのスタイルだけを引き継いだ、都会の他の画家たちは。
それが平面的、装飾的に洗練され、どんどんと今でいうデザインに近づいていく。
色の形と分量の調和とか。
ドラマよりも、心地よさとか。
という流れの横で、自分の世界を独自に築いていたのがモロー。
装飾的で、演劇的で。 古典的。
原画の前でからだを折り、顔を近くによせてまじまじと観察できました。
あの独特のタッチは、針で引っかいて絵の具を乗せて拭きとって、作っていると見た。
にしても、美しい。
そしてルソー。 アンリ・ルソー!!!
こんなに鮮やかで凛々しい絵だったのか!!!
他の画家とは一斉交わることなく、家族に力強い童話を話して聞かせるような、のぴやかで独自な世界。 現代の絵本作家の原点は、唐突に(もしくはすべてのアンチとして?)芽生えたのかしらね。
以上を1時間くらいで観賞できます。 贅沢。