2010.7.12. 18:30〜 シアター1010 / ミュージカル座
実は内心、
何を今さらこのテーマ?と思っていたのですが、若い世代には「ひめゆり」を知らないコたちもいるようで、日本人としての最低限の教養として伝えてもらわなければいけないのだなと。 何年かに1度は、夏の風物詩として語り継がなくては。
わたしが本を読んだのは(母に買い与えられました)小学生のときだったので、おねえさんたちの悲劇として捕らえていたのですが、
今日は観ながら、何故こんなに幼い女のコたちが戦線に参加しなければいけなかったのだろうかと。 アタリマエですが、いつの間にか視点の位置が変わっている。
だから女のコたちのハーモニーは天使の歌に聞こえてしまうし、
おとなは何をしてたの、何を!!とハラがたってくるし。
ホントは、観るつもりはなかったのです。
案の定、太平洋戦争モノのドラマにありがちな被害者意識の共有をあおる「感動的な」内容でした。
エピソードの大半は実際にあったことの再現です。 それも伝えなければいけないことだけれどね。 でもね。
今、わたしたちが考えなければいけないのは、
二度と繰り返さないために、この悲劇を伝えて行きましょうではなくて、
何故、あーいう軍国主義な隣近所や学校というシステムを作ってしまったかという分析と自覚だと思うのです。
このテのドラマを見るとき、わたしたちは全員、自分たちは被害者だって気分ですよね。
責任は自分たちにはないと主張しますよね。
でも実際、大半の人たちは加害者でもあったはずです。
黙認とか同調という共犯者であったはずです。
今日の舞台ではオニの軍曹がたったひとりで悪役を演じるのですが、(岡さん、辛いね)
何故かれが、あんな選択をするのか。
かれを追い込んだ社会の(世間の)システムはどんなものだったのか。
天皇という旗印を振り回して、
みんなで。
「ヒメユリ」という構想が(民間の発想として?)、何故生まれたか。
社会の中で認められたのか。 賞賛されたのか。
日本がそんな社会システムになっていたはずなのです。
社会的な情報の欠如という怖さもある。
変だな、妙だな?と気付けるための教育のあり方も。
描かれなければいけないのは、
わたしたちが考えなければいけないのは、そっちの人間関係じゃないかと思う。
知念さんという沖縄出身の女優さんが主題を歌ったことで、
舞台がキレイゴトではなく真実として浄化された素晴らしさはあったように思う。
でも、
わたしたちは未だに、「黙認とか同調という共犯者」なんだよね。
沖縄に対して。