あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

「落ち着け、グロリア!」を観た

              2007/12/1 14・30〜 森下スタジオAスタジオ /輝く未来

伊藤キムという超ダンサーが。
才能あるヒヨコたちを集めて、共に何かを探そうとしているらしい試行錯誤のユニットの2回目の発表会。
いろんな意味で試行錯誤、してるなあ。 がんばれキム先生!

5ヶ月で、
ダンサーのカラダはここまで変わるのだなと驚く。 筋力とかからだの各パーツへの意識とか。 体力と安定感。 
からだの表現ができてきた分、他が際立って見えてしまったりもするが。
まず、この努力には頭を下げよう。
(山下さん♡ ちょっと異色で気に入っちゃいました)

ヒヨコたちはキムさんの名まえに擁護されることで、自分たちが物理的にも精神的にも どれだけ恵まれているか意識しているのだろうかと、ふと思う。
わたしの周囲にいる小劇場の役者たちの切実さや逃げ場のなさ。
そこから外れたこの中で、生み出されるピュアな精神性は、はかなくて美しい。

ゆっくりとゆっくりと時間をかけて、透明な1滴を搾り出せるまで、この擁護が続けられるといいんだけれど。
今、気配は生まれつつあるけれど、道はまだまだ遠く感じられる。

もがきながらも、いろいろと不器用に成長している子どもたちを観ながら、
「表現する」
ということの原点を考える。
不完全だからこそ、エレメントが分解されて透けて見えるの。
だから以下は、子どもたちへの感想というより、自分への諌めだ。

客の視線から逃げない。 向かい合え。 見つめ返せ。

社会を変えよう!というくらいの意思は必要だな。

ひとりでも多くの観客との空間・意識の共有のために、美しく親切にわかりやすい表現をしよう。 この時、明るさ・笑顔やパワーは有意義らしい。

ミザンス(これは演劇用語。ダンスで何というのかは知らない)には、思っている以上の注意を払わなければ。
ひとりひとりがおもしろくそこに存在していても、レイアウトに意思がないと、せっかくの表現が意味として発揮しない。

メリハリ。 距離を表現したかったらまず接触しなければ。 関係性が生まれ、ズレが生まれてくると俄然おもしろくなる。

そして、
やっぱり、パフォーマンスは動員してナンボかな〜。
自分の表現=他人の評価。 プロとアマの差。 
人を振り向かせて、立ち止まらせて、呼び寄せて、はじめてその表現に意味が生まれる、のかな。 他人が動員されて、エネルギーが増幅されることを、表現と呼ぶのかな。

 

コンテンポラリー・ダンスの市民権をアップさせようとしたら、
表現だけでなく興行という視点を掘り起こしていかなければならない。
今、演劇の観客がやや腐りつつもそこそこの経済性をみせるのは、劇団四季という企業制度が陰口を叩かれながらも血を吐きながら、潜在観客層を掘り起こした結果なのだよ。
わたしもやっていたシアター・アドバイザーもそうだし、
ちけぴと共同開発したチケット制度もそうだし。
東宝も小劇場もその他も、その恩恵を蒙っている自覚は皆無だけれどね。
四季が掘り起こした客が分離、枝分かれ、先細りして。
オペラやバレエぐらいまでは流れたけれど、ただ、抽象性の高いコンテの客としてまでは届かなかったようで。

そこまで考えが行きついて、
自分のダンスに対する思い入れは薄っぺらだなと思い知る。
コレだけ愛するキムさんのダンスにすら、わたしは動員をかけたことがない。
自分にはダンスをあれこれ言う権利はないかもなあ。

 

まあ、それで。

自分が今、書いている、書き直している戯曲を、イチから書き直すことにしました。
この数年、自分が書きたい幻想性、精神性にこだわってきたけれど。
そろそろ、発言性のある作品を目指そうかな、と。