この年齢になると自分の記憶すらがミステリーで、結論はでないのだった。
わたしは過去、勅使河原三郎氏の舞台を観たことあるのか?
わたしの中にはちゃんと、勅使河原さんのダンスはスタイリッシュでストイックでぐねぐねしている。と刷り込まれているのに、では過去どんな感銘を受けたか?が思い出せない。
ポスターやフライヤーを見るたびにチケットを買うか迷うのは確かだ。良質な感動が約束されているのはわかっているから。
それでも観ることなくここまできたのか?
だが今日の再演を見る限り、舞台上で使用されている映像や音楽の記憶は、途切れ途切れだが、確かにある。これ知ってる!と何度も思う。
折々に、作品を映像で見ているのかもしれない。と思う。
映像だと、演出や動きの妙とかはわかっても、ダンサーのからだが作る温度や空気感に突き動かされることは少ない。観たつもりになってはいけないのだ。そのくらい別物になる。
今回、拝見させていただいた勅使河原さんは、確かにスタイリッシュでストイックでぐねぐねしていて、広大で美しい風景や心象を描き出す名手でいらした。
とにかくかっこいい。
そして二箇所。わたしをわしづかみにしたシーンがあった。
わたしは最近ずっと、何を観ても読んでも、違う。ほしいのはこれじゃない。という想いに支配されている。じゃあなにが答えなのか? 自分でもわからない。
という自己嫌悪。不信。迷路。逃避。逃避。逃避。
それが、
唐突にぽかっと水面に浮かび、息継ぎができた感じを持てた。
そんなふたつのシーンだった。
ひとつは、
無機的で怜悧なシーンのあとに配された有機的な風景。
芝生の広場に風がそよぎ、木が伸び、枝が揺れたり。石だか種だかがあったり。(というようにわたしには見えたシーン)
ああ。枯山水だな。
ないものが見える。
見ているこちらの呼吸が、座禅を組み、瞑想しているかのように、完全に支配されてしまった。
何かの芯に近づいているような。一方では個を失い、宇宙全体のなかをたゆたいながら、あたたかいなにかを分かち合っているような、風になる。
深海の中に、自分の中に、沈殿していくものがある。
排出され、蒸発していくものがある。
そんな呼吸だ。
それらが重なり合い、揺らぎ、近づき、すぅっと寄り添う。まとめられる。
ふぅっと、自分の呼吸が戻ってきて、わたしはにっこりしてしまう。
もうひとつは。
冷たいブルーに彩られた、ジョン・ケージの『4分33秒』的なシーン。
というより、今、リンクを貼るためにウィキペデアを開いたら、絶対零度という単語が出てきてて驚きましたよ。
しかも今回の偶然というか、わたしは前日にね。テレビつけたらこの曲が解説されてて。アート系男子ってこういう風変わりだけが取り柄(ごめんなさい)な趣向、好きなんだよなぁとかあらためて感じてた直後で。
その解説というか坂本教授と福井先生の対談なんだけれど、シグナルとノイズの話で。
普通はノイズを排してシグナル(美)だけを抽出した構成をアートとするわけだけど、ケージはそのノイズのほう、「地」の音をアートに選んだのだよね、とか。
というわけで。
ちょっとコバカにしていた『4分33秒』体験に、(極上の解説付きで)いきなり放り込まれてしまいました。
そして。
これが――めっぽう、おもしろかったのです。はい。
感覚を広げて、客席のたてるカサコソとかコホンとかいうノイズを呑気に拾って楽しむうちに、茫洋とした客席と緊張のまま固まっている舞台と、どちらが余白であるのかが次第にあいまいになり、とけあって、
くすぐったいというか、笑いだしたい愉快な気持ちになり。
世界って広くて、呑気だなあ、とか、ね。
余白とか余裕とか覚悟とか、この年齢にして味わえる感傷を、心の中に転がしてみたり、ね。
ええ。ええ。そのふたつのシーンは、わたしに喜びを思い出させてくれたのでした。
喜び、か。