さっき、ね。
最近、特に感じる風潮として。
何故
自分と違うモノ、意見に対してここまで誹謗中傷糾弾するのだろうかと考えて。
「原因としての民主主義」と思いついてしまいました。
民主主義というより、多数決?
多数決に勝つために、とにかく相手を否定する。
(日本人の場合は特に?)議論できないから感情で。
相手をおとしめれば、自分の存在を、自分の「正しさ」を信じられる。
本来の民主主義では、少数意見も尊重するはずですが、
少なくとも日本の社会ではそこが飛んでしまっているというか、
自分の立場を護るためにね、相手を見下げる。相手の尊厳を大切にできない。
自分の弱さや欠点(現実)と向き合うことは、最近の流行りではないものね。
非力は乗り越えるものではなく、
自分には必ず、見果てぬ才能があるはずだしw、とかって、見て見ぬ振りをすべきもので。
(流行りというより、見て見ぬ振りってのは、日本の伝統か)
(もちろん、その良さも、一方ではあるんだけれど)
そんで。弱い犬ほどよく吼えるから。面倒くさいことになる。
その面倒を嫌って、現実から逃げて安易なごまかしで済まそうとするから、
世の中、いよいよ、おかしなルールばかりができてくる。
表現の自由、という言葉すら、妙な意味合いになってくる。
まず、今ある日本は民主主義ではない、ことをもっと意識しないとな。と思うけれど。
でも、
今ある日本のあり方が民主主義だと教育されてるんだわね、わたしたちは。
(うーむ。これには、どういう手を撃てばいいんだ???)
(初期教育の現場からしてが、民主的かどうか?ってトコに繋がっちゃうのか?)
そして。となると、
「民主主義の社会でヘイトスピーチ/クライムは許されない」という論調は、
自己否定というか、自己矛盾というか。
ヘイトスピーチをヘイトしているだけで、優位性はないじゃん。
対岸で吼えあっているだけで、
解決しようという方向には向かわないのでは? とか。
対話(双方向)ではなく暴力(単方向/押し付け)で、ものごとを解決しようとしている意味では変わらない。
結局、正義と悪というマルバツ(二元化?)で結論を出そうとしていないか?
何故、ヘイトスピーチをしてはいけないのか?
喧嘩をふっかけられたとき、こちらはどう対応しなければいけないのか、
たとえば、コブシにはコブシだぃ!なんて考えちゃいけない、とわたしは思います。
あなたはどう考えますか?
低レベルだが、そこから始めなければ解決にならないのでは?
もっと他に、原因があるのかもしれないし。(生活の不安からくる憂さ晴らしかもしれない)
対話を重ねると、何が本当がわからなくなる、かな。
たとえば。
脱原発と平行して語らなければいけないのは、
東電の抱えた借金を、では何で補填しなければいけないか。
メルトダウンの責任問題とは別に、具体的に誰/何が被災補償の金額を手っ取り早く出せるのか。
だと思うけれど、
そういう論調はあまりでてきてない気がするの。(どこかにあるのかな?)
自分の主張の説得力を弱めることは、話題にしない。いや、隠す?
もっとよく議論してから、というのが最近流行りの言いまわしでもあるけれど、
あくまでも時間稼ぎのイナシであって、
資料を隅々まで検討して、みんなでより深く考えましょう、の意味ではない。
ちなみに。まったく同じ思考の流れで、
「とにかくなんでもいいから、被災者をボランティアしましょう」コールとか、
「マスコミの語らない現実を知ってください」ツイートとか、
「みんなのアイドル真央ちゃんを哂った元総理を糾弾しましょう」キャンペーンとか、
一見プラス方向の
ヘイトではなくライク?スピーチもあるんじゃないか?とか思う。
こっちは罪悪感が皆無な分、いよいよ他の意見を判ろうとはしないんだろうな。
(あ。ヘイトスピーチする人も罪悪感はないのかwww)
なんか、
自分でもワケがわからなくなってきたなり。
そして最終的には、
自分にとって「許せない」相手を「理解できる」か?という考えを、受け入れられるか自分。
に、持っていきたいわけだが。
最後は。寛容と謙虚、か? むむぅ。