目的に迷うと、ときどき「play」の意味を考える。 「do」ではなく「play」すること。 意思の方向性とか自分を楽しむとか、そんなニュアンスがあるような。 「do」はひとりでも可能だが、「play」はふたり以上が必要かな、とか。 そして生きるとは 「do」なのか「play」なのか。
震災の傍らで、演劇の意味を自問自答している人を多くみかけるでしょう?
でもね、震災とは関係なく、
演劇をするということは、そもそも余計でおせっかいで迷惑なことであるし、そこに身を投じることはいろいろを棄てなければいけなかったはずだし、それでも続けてるわけだから。
自分が自分であるために。
あなたやあなた方との「生」を問うために、一緒に楽しむために。
世界の豊かさを願うために。
時勢にあわせて今更迷うことなんてない。 と思うんだよね。
安全や電力という物理的な問題に対しては、慎重にならなければいけないけれど。
ミュージカルはつくづく、節電と対極にある文化だね。
野球でナイター照明に、どんな必要性があるのか知らないけれど。
舞台照明や音響や機構は、メッセージ・言葉・想いの一部。 だと思ったよ。
ミュージカルの贅沢は、無駄遣いじゃない。
照明がなくても舞台は創れる? そういう演劇もあるでしょうよ。
でも『夢醒め』のクライマックスの強いメッセージ・祈りの主役は、
あの光のほかは考えられない。 ねえ?
そして、この祈りは、今のわたしたちに、いかほどの敬虔と喜びを気づかせるか。
ゲネに招いてくれたマシュに、お礼のメールをする。
こんなときだからこそ、明日からたくさんの幸せを届けてください。
うん。 ホントにそう思った。
作品としては、あそこが下手だな、ここがもったいない、あれやこれやと言い出すと、きりがないけれど。
いい舞台でした。
キャストが、客席や共演者という他者に自分の祈りを伝えようとすれば、技術を超える。
にしても、
ここにきて『夢醒め』は、なんていうのか、コアすぎた。
(あ、知らない方のためにガイドすると、女の子が一日だけ霊界で過ごすことで生と死を考えるミュージカルです)
老夫婦の再会や子どもたちのシーンは、日々のニュース画像に直結だもの。
あとね。 客席で、ケージさんがあれこれと気を配ってたのが印象的だったよ。