あとりえあげん

世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。 HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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『貴婦人の訪問』プレビュー

先に原作戯曲を読んで、楽しい誤読と妄想を展開し、
先に輸入CDも取り寄せてもらったけどドイツ語なので何が起こってんだかまるでわからなくて、美しい音楽だけを耳になじませて。
という新作ミュージカルの東宝版を観てきました。

うふふふ 楽しかった~ 
前代未聞のシュールでブラックコメディなミュージカルです。
山田大先生の演出なので抜け感もあります。どろどろなお話なんだけど振り切ったさわやかさもあるのです。

 

この3日間はプレビュー、というよりトライアウト?
演出家さんのブログでは、まだ手を入れていくと書いてありました。

わたしが観た回では、一幕の緞帳のタイムラグ以外は形になってたと思うけど、まだ変わるのかな。
ブログには仕込みの時間が足りない!とばかり書いてあったけれど、短時間でここまで作りこめてしまう日本人スタッフさんたちのマジックは、ほんとにすばらしいです。
役者さんたち(特に祐一郎さん♪)は内面構築関係の課題が山積みで、それはそれで楽しそうです。

 

振り付けが素敵でした。どう言えばいいんだ?www 
あっちとこっちとそっちで違うことやってて、そのボリュームのバランスや流れのコンビネーションが、とても複雑で心地いい、と言うか。

で。その場面場面でモブが説明しなければいけないことはちゃんと押さえてて、でもモブを構成してるひとりひとりの性格付けもできていて。

これからのミュージカルの振り付けは、こんな風に進化してくのかなぁとか思ったのでした。          

 

それから訳詩がさすがというか、それはすばらしくて。
キャラの内面を、原作戯曲以上に深く的確に、わぁ、そこに触れちゃうんだと、森を分け入るように、見せてくれるのでした。

ミュージカル版のドラマの作り方は、原作戯曲の持つきっついシニカルが抜けて、 人間は弱いから愛しい。有限であり無限だ。みたいな解釈にすり替わっているというか、 1950年代(戯曲)と2010年代(ミュージカル)では、こんなに人間の持つテクスチャー(質感)が変わってきてたんだね、と思わされたのでした。 それはわたしたちの世代が生きてきた時間でもあるわけで、わたしたち世代の、人間としての成長が、そこに反映されてるからだとしたらいいなあと思います。

 

一方で。

わたしたちが映画やコミックで慣れて、軽々しく口にするロマンティックや正義に関する無邪気な言い回しが、実はいかに無責任で何も考えていないまま使ってるかも突きつけられちゃうわけで。

そういう価値観の裏返しが好物なのもわたしたち世代の傾向かもしれないわね。

 

 

ちょっと気になったのは、今の日本との価値観のズレでした。

震災以降の日本は(全員とはいわないけれど)表面のきれいごとを押し通すことで保っているところがあるというか。たとえば「きずな」という言葉の持つあやうさを内心わかっていながらも表にはださずに、合言葉化させているとかね。人間は日本人はすばらしいねと、合言葉みたく繰り返したりね。

うそだってわかってんだよ。でも時代の流れの中、それが必要なときもあるんだよ。

でもこのミュージカル、そこを暴いちゃうんだもんなあ。てん、てん、てん。

 

 

そういえばね。劇場からの帰り、モーレツにおなかが空いて、がつがつと肉を喰らいたくなって、ラム肉買って夕飯にしたんだよ。
このミュージカル。観るほうも体力いるねと思いついたら、演るほうはどんだけだと思う?って声が、どっかから聞こえてきたような気がして。www

男と女の間の愛とは癒しではなく戦いだねって感覚が。 いつ以来か思い出せないくらい懐かしい。

愛にキズついてひとしきり泣いたあと、おなかが空いてものを喰らった時代もあったなあ。愛にはエネルギーが必要なのよ、と懐かしい。

いきつくとこは、自分をまるっと差し出すあたりは、まだ現役か?

 

 

お話は。年老いてからの肉食女子と草食男子(ややロールキャベツ系/中身は肉)との行き着いた愛の果てが奇妙で、深く。

アンビバレンスって言い方であってるのかな? 人間の中で両極ふたつの感情が同居して、ぐるぐると入り混じり、思い乱れ、やがて沈殿して、相手にとっての自分のあり方を選択する。愛。

あ、 わたしにはこれが、戦って溶け合って行き着いた男女の愛の形のひとつなのねと感じられましたが、 昨今の砂糖湯みたいな恋愛ドラマにあこがれてる人たちには理解が難しいのかもなあ、と思う。大丈夫かな。

 

もしかしたら、一種の心中物といえば近くなる? と書いてみたら、「心中」について考え出して、いまさらながら考えがまとまらなくなってきたので、却下。(心中って、自分たちvs周囲の人たちへのこれみよがしなのか?って、今、思いついちゃったんだもの)
何を思い出したかというと、80年代の言い回しで。 失恋した10代の女は自分だけが死んで、20代の女は相手を殺して自分も死んで、30過ぎたら相手だけを殺すよねってアレ。情が淡くなるってことじゃないのよ。男を愛することの味わい方のバリエーションが増えるの。憎むことも殺すことも、根っこの気持ちは執着という愛なのよ。

 

というわけで、 かなめさま演じるクレアが、もーかっこよくてかっこよくて。 老婆の声も、ぎくしゃく強く歩く様子も、 過去の幻影クレアがまわりでうろちょろしてるから、内面に少女が残ってる印象をほのかに残すし。

  

 

観劇後感がどうなるかな、と思ってましたけど。すっごくさわやか~!で、驚きました。そしてここに、ラストのすっごいトリックを感じます。

 

図式でいうと、 対立するクレアとアルフレッドがいて、それ以外の人たち(ひとまとめにしないでと言いたい人もいそう?)の価値観が、独自の正当性をもって、アルフレッドからクレアサイドに塗り替えられるというお話なわけですが。 村の人たちが最後、究極にたどり着いたとき、クレアだけはぽーんと飛躍して、アルフレッドの愛を受け止め、村の人たちの価値観を抜け殻化させてしまう。と、感じたのでした。

クレアは深い悲しみとともに愛を手に入れたなと思う。手に入れたから、支持者たちを置き去りにして、とっとと去っていくのね。訪問(者)の意味をちょっと考えかけた(=外来神)けど、今日は考えませんから。

そして客席のわたしたちは、狂乱している人々の愚かさを他人事として、残念に思いながら、高みの見物してる。これがね、けっこーカタルシス(昇華)なのよ~(爆笑

自分は絶対違う側の人間だと思ってみてるの~ www

このへんはたぶん、クレア以外の人たちが典型的な図式として、振り切って演じてるから、見ていて笑っちゃうんだろうな。

 

 

帝王の声質と、基本背筋側に重心を持ってる祐一郎さんに、さえないおじさんの役は想像以上にたいへんみたいで。とまどったまま役を演じてる感が強い気がしましたよ。
手をばたばたさせてるだけでなくて全身でおろおろせんかい!とも思ったが、もしかしたら別の方向をさぐったほうが似合うかも、とも思う。宿題。(←?)
あ。役の入り方、そこに持ってきたか(大爆笑だ)!は、予感はあったんだけど、まさかまさかでビックリでした。ふっふーん。これ、ほかの人は原点わかんないよね、きっと。
後半の、クレアの全部を受け止めはじめたあたりは、たぶん多くの人が見過ごしそうだけれど、かなりむずかしいのに、いい感じに持っていけたと思います。

 

 

 

などなどと、勝手につらつら書きましたが。

 

さっきから、いろいろ思い出しながらニヤついている自分がいるわけでして。
このミュージカルの世界観や、キャラクターたちがわたしの中に息づき始めたんだな、と思います。

 

でへへへ。8月のクリエ公演はチケット3枚とったので。続きます。