暮れに年下の友人が遊びに来たとき、ゲームソフトの棚を見ながら、
そのゲームシリーズやるんならあげるよと、わたしは言った。
わたしは二度とやらないと思う。
3.11以降、なんかヒトゴロシなゲームが嫌になったみたいで。 1回やりかけたけれど、全然できなかったの。
「だったら「ピジョン(麻酔銃だけでゲームクリア)」を目指せば?」
んん、そこまでしてヤル気はないし。
「そっちの『アサクリ』は? ヒトゴロシのゲームじゃないんですか?」
ん、暗殺は、別。
「はぁ?」
などと、わけのわからない会話のあと、『メタルギア』シリーズは貰われていった。
その後、ひそかに残った疑問。
なんで戦争ミッションはできなくて、中世の暗殺ゲームはOKなんだ、自分?
理由付けはできないが、感覚はハッキリと答えを出している。
えーと、ゲームを始めようとして。
無線でミッションが届いたとたん、ヤル気をなくしたんだよな。
権威の言われるままに、尻尾を振って行動することが嫌だった?
いや、ほとんどのゲームの構成は、そんなものなんだが。
ゲームの嗜好はともかく。
なんとなく、考え方の糸口のようなものが、ひっかかってきた。
無意識にも。 国家権力レベルや施政者を、無邪気に信用できなくなった、のか?
(今までは、信用してたというより、無関心だった?)
隣人と一緒に考え、自分で判断したものになら、行動を預けられる?
それが、3.11以降のわたしの価値観の流れなのかな?
嫌悪、だった。 ゲームが続けられなかった感情は。
信用できない、というよりも、嫌悪。
愛したいのは、日本、という国としての括りではないのかも。
迷いながら暮らしている、人々、としての括り? よく、わからないけど、その辺。
チーム、ではなくて、個々。
価値があると、つなげる部分。 コレはいらないと、切り落とす部分。
個人主義とも民主主義とも、少し違う。 資本主義も、信用できなくなってきた。
宗教家の類が唱える、「精神世界」とやらも絶対に違うのだが、
微かに近いものが、あるような気が、しなくもない。 (←否定文オンパレードな、肯定?)
他人に与えられるのではなく、
おびただしい情報の中から、自分たちで選択していく。
結果、違った意味での衆愚になったとしても、それはソレ。
電力とか、税金とかのニュースを聞くたび、朝三暮四のおサルには、ならないようにしないとなぁと思いまする。
あと、
前総理がインタビューで、震災に対して、ご自分は対処すべきはキチンとやりつくしたからと胸を張っておっしゃるのを聞き。
自分の「出来なかったこと」を自覚・明言できない人材はダメだな、と感じる。
すべきだったことが見えていないから、全力を尽くせたと思い込めるのよね。
見えていない人に、理解せよと求めても、無理。
たぶん、見ようともしないんだろうな。 自己否定に繋がっちゃうから。
えーと。
個々の自己修正力みたいなあたりに、答えがありそうなのかなぁ。
(おお。 細胞っぽい話になりそうだ)