2010.9.11. 14:00〜 アサヒ・スクエア
ツアーに組み込まれた至れり尽くせりの旅行は、旅という違和感が少なくて。 それでもロシアから返った直後、日本の持ついろんな「うそ臭さ」「うすっぺらさ」みたいな感覚にはとまどった。 生活の中、すぐに消えたけどね。
スーパーに並ぶ食材の顔色の悪さとか。
爛熟期を超え、アイディアも感性も並べつくして、これからの日本文化はどこに向かって落ちていくのだろうか、とか。
良し悪しというのではなく、現在の日本のカラーとして受け入れたうえで、惑う。
というわけで、この舞台が持つ日本人らしい「洗練」を見て。
たとえば血を白ペンキの飛沫で表現してたり、
性行為をグロテスクでコミカルな表現に昇華してたり。
つまり、
日本文化の「洗練」も、言葉を返せば「うそ臭さ」「うすっぺらさ」だったのか?と惑う。
良し悪しというのではなく、日本の根本として受け入れたうえで、惑う。
ところで、
『タイタス・アンドロニカス』はシェークスピアの初期作品として評価が低かったのだが、
(血みどろと欲望に満ちた、即物的な残酷物語)
何年か前、『ライオン・キング』のジュリー・ティモアの演出が注目されてから、
俄然、人気演目になった気がする。
で、
この公演を観ていて思いついたのだが、
もしかしたら作家は。
人が死ぬ演劇 = 悲劇 と括られる時代に、
死という価値観が、今ほど重々しく悲壮で善人ぶっていない時代に、
単に「人が大勢死ぬ喜劇」を描きたかったんじゃないの???
最後の殺しの連鎖は、ゲラゲラ笑うシーンなのでは?
なんとも幼稚で殺伐とした感性だが、
生き物としての人間の持つパワーはその辺では?