劇場に続くエレベーターに並びながら、前に立つ美女がもしや?まさか?だけど?とじろじろしてたら、振り向かれた。 岐阜の友人 いとーじゅんこ たった。 前日から上京してたらしい。
当日券を買ったはずだが、予約してあったかの女の隣の席でと言ったら、受付さんが前売り料金で処理してくださった。 ありがとうございマス。
2010.9.19. 14:00〜 あうるすぽっと / 燐光群
チェーホフはずっと苦手、退屈。 日本人がなんでここまで思い入れるのか、不明。
ただ今度ばかりは、ロシア旅行の直後だ。 ロシア人と日本人の言葉に向ける想いの差、かなりの差、みたいな想像(あくまで想像だけど)が肌感覚に残っている。
わからなかったものが、ちらちらと意味を持ち始めた。
日本人がどれだけ理解・消化してるのかは疑問だがな。
もっとも、
坂手サンの料理方法は、チェーホフの言葉を借りながらの観客/現代日本人のための演劇。
『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『桜の園』『三人姉妹』の順で、それぞれの趣向を凝らして(夢幻能をとっかかりにして)、オニムバス風に。
おもしろいのがこの順で描かれると、世界が極プライベートからパブリックへと、過去から現代へと広がりをみせること。 坂手氏に言おうものなら、当然意識して描いたよと返ってくるンだろうな、と思い出す。
(ロビーでお見かけしたけれど次々と他の方たちとお忙しそうなので、失礼する。 ってか、こういう場で知り合いで〜す、という顔をするのは苦手です)
パブリックを意識できる演劇人は、とても少ないと思う。
ご本人は意識しているつもりでも、ファッションでしか過ぎないことが多いような。
坂手サンについて考えていると、「唯一の?」という単語が浮かんだほど。 ま、それは言いすぎとして。
日本人にとってあらゆる表現形態は、とても個人的。 他人の眼は気にするけれど、群れたがるけれど、「群れそのものの在り方」には無関心? 眼を逸らす?
坂手演劇の持つ、日本人にはあまりないクールさは、俯瞰視座からくるのかな、とか。
でもその中で、空間が魅力を帯びて立ち上がってくるのは、役者という個々人の熱がお互いにからまったときなのだな、とか。
最近の演出の流行は、全員が喪服を着てること。 予算の割りに効果がある?
今の日本人の意識が、何かに対する葬列に向かっているのか?
なんにしても多いよね。 この作品群もそこから始まってた。
(そろそろ食傷かな)
夢幻能とは、あの世とこの世を繋ぐ架け橋というのが坂手さんの解釈なのだが。
展開の中で、
ヤバイなぁ、この場(劇場)に霊を引き寄せるなぁ、と思わせるシーンがあった。
案の定というか、
観終わったらじゅんこが、舞台奥でちらちらしてたあの黒い影はなんだったのかな?とか言い出した。
きゃん。 わたしには見えていないからね、それ。
(ということを考えると、能舞台というのは神社の持つ空気に通じてるのかな、とか。
何かが祓われているよね)