最近、漠然と考えていること。 覚書。
声楽や作曲に関して無学なので断言は出来ず、素人が身近の存在を通して、なんとなく感じているコト、ぐらいで読んでください。
すっげぇあたりまえのことじゃん、だと思うけど、ま、お笑い種のひとつとして。
昨日、ずいぶん古いコトを思い出しました。
訳詩において一音符に一音を提唱したのは劇団四季で、そのことをブロードウェイのエージェントに話したところ、東宝の『レ・ミゼ』の契約内容にまでその一文が加えられた、という自慢話。
何も知らない東宝スタッフは、ずいぶん困惑・苦労をしたらしいってことも。
諸悪というか思い違い、の始まりはここだったのかもしれませんね。
劇団四季は、言葉の一音一音が明確に伝わることをモットーとしています。 問題はそれが、間違いではないが全てでもない、ことでしょう。
いつだったか父に、わたしはお能のリズムにはついていけないと話しましたところ、謡の素養がなければ難しいだろうな、と返ってきました。
単語のひとつひとつを通して、観客が都度、無限のイメージや情景を自分の中に呼び起こすためには、あのゆったりと響かせる時間が必要なのだとか、ナントカ。
そのときわたしの中には、言葉の最小パーツは音節ではなく単語だという捉え方が残ったわけですね。
作品の中の、その場面のその一曲を通して、観客をどこに連れていくか。
ま、曲全体を通して、なんとなくイメージや気持ちを、という方法論もあるでしょう。
わたしが今、考えているのは、単語のひとつひとつにイメージを乗せて、明確に伝えたらどうなの?ということです。 もっとも、その単語のイメージを織るためには、周囲の単語との関係性も必要になってくるし、
全体の中での優先順位に伴う強調や、緩和や調和や変化の計算も必要になってくるし。
でも最小のパーツは、単語。
単語をひとつのイメージとして発音するために、
声や息を支えるからだの箇所や、もっていき方となったら、
わたしにはもう、お手上げ。 容量オーバーというより、無知なので。
ということを前提にして作詞する。
オリジナルの場合はね、好き勝手に書いても、作曲家さんが一音符に一音で作ってくれますからね。
逆にこのメロディに英語をのせたら、早口大会かもなぁと、少し愉快。
そして、訳詞。
翻訳ってね、二通りの方法論があるでしょう。
よく言われるのがチャンドラーの『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』で、
清水俊二さんの意訳(だが、むちゃくちゃカッコイイ)と、村上春樹さんの正確な対訳。
どっちがいい?ってことではなくて。
どういう世界を作るか、そのために何を選択するかという最終責任者は、この場合、誰になるのかな。
伝えるべき内容、世界観。 を、作詞する。
とかなんとか、考えていても。
演技者が炸裂してしまえば、理屈はふっとんで、観客は巻き込まれて浄化されちゃうんだけどね。