あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

アウトロー

アウトロー」という単語を知ったのはイーストウッドの映画のタイトルだったので、西部劇の無法者という意味で刷り込まれてた。 
英和辞典で調べると

法律の保護を奪われた人; 追放者; 無法者; 常習犯

となっている。

今、読んでいる『大聖堂』という大河小説は12世紀のイングランドが舞台なので、アウトローと呼ばれる人たちは上記以外にもうひとつの意味を持つ。

キリスト教の神・教会のご加護を受けない人

と言えばいいのか。 つまり当時のlawとは教会(の教え)をも指すわけで。
教会に守られていない地域、町や村以外に住み、税を納めない人々は、アウトローとなる。 絵に描いたような悪人でなくても。 ついでに言うと、そんな女性が昔ながらの土着宗教・知恵を活かした生活をしていると魔女と呼ばれる。
(わたしの知識はざっくりとしたものなので、おしゃべりだと思って読んでてくださいね)

この間、森に住む者=アウトローと書いたのは、
『大聖堂』の中で、
「わたしはこの森に住んでるの」「というと、つまり?」「そう、アウトローよ」
みたいな会話を読んだあとだからで。
中世ヨーロッパの町や村は教会を中心に発展し、塀や濠などに囲まれた閉ざされた空間であり、ゆえにその周囲の森は治外法権であり悪や魔や夜の象徴になると、他所で聞いたばかりの話にそのままリンクしたからです。

生活を他の人たちに揃えるのではなく、自分の考えや感性を優先するゆえの孤独。
ある意味、傲慢。 後ろ盾のない不安。 不器用な自分に対する苛立ち。
代償として得られるものは、真実とか神秘の……カケラ。 たぶん。

まあ、
わたし自身は、アウトローというよりアナーキストに分類されるのだと思うのだけれど。
つまり、アウトローは法を犯す者で、アナーキストは法に左右されない者とでもするかな。
で、ナンにせよ、同類というか。
だから昔この小説を読んだとき、上記の森に住んでいた女性に共感度が強かったし。
この小説に限らず、ね。
法やルールを守り守られる者よりも、それ以外の者がずっと身近なんですよ。 わたしには。

 

世の中は〜だというけれど、本当にそうだろうか。 〜とは限らないのではないのか。
いつの頃からかそんな考え方をしてた。
やがて、普通の人は世の中に対してそういう疑いを持たないと知り。
何も考えずに、あるがままに受け入れてる。 なんか幸せそう。 
でも、自分にはできない。 ……苦しい。

昔から思っていることは表明せずにはいられなかったので、
「絵を描く人は、やっぱりちょっと変わってるよね」とか言われて、そのたびに少しずつキズつくんですよね。
何しろ絵を描いてる友人たちにまで、同様なことを言われる。
嫌われるとか苛められるわけではない。 異端視されるだけなんですが。 これがちょっと得意で(という自意識はある)、かなりさびしい。
自分は自分として、諦め、受け入れるしかないと居直っても、ティーンエイジャーはねえ、都度深くキズつき落ち込むんだ。

(わたしのブログなんぞを読むような人たちは、あ、わたしも〜と言うのが多いんだろうケドな)
  (^_^)b
 

美大に入るとね、ずいぶん楽になりました。 
何しろ、いかにして自分は他人とは違うかというパフォーマンスを競い合う人たちに囲まれたわけだから。
両親からは、そんなのは世の中からみれば特殊なんだからとずいぶん注意され。
でも、わたしは人と違うことを畏れなくなった。 楽しみ始めた、と思う。

社会に出てからも、
美大卒ですとか、まんが家ですというのは免罪符になって、調子に乗ってたかな。
その傲慢が通じるのは、人として認められてるのではなく、無害だからと見捨てられてるだけなのだと気付くまで、時間がかかったけれど。

そして、
教授秘書のバイト先で知り合った男の子(カッコイイ東大院生だ!)とつきあいかけて、青ざめた。 この人は何かを創ること(まんがを描く)を優先するわたしの生活を理解できない。 わたしの全部を受け止め切れない。 いずれ破綻し、どちらも悪くないのにキズつけあうことが見えてしまった。 いや、そうなったら悪いのはワタシということになるんだろうな。
どうしたら分かってもらえるんだろうと、同じ秘書仲間に相談したら、今度は何を理解してもらえないと悩んでいるかを理解してもらえなかった。
笑い話、じゃないからね。 ……笑い話、なのかな。
それまで自分の身近にいた男子(美大とか劇団とか)がいかに特異か、感謝できるようになったのと。 (笑笑っ)
でも、じゃあ、そのままでいいのか、自分は? という問いがもたげてきたわけですね。

そういう男子との恋愛が、という意味ではなくて、
社会人として半端者、ちゃんと日本社会を理解・体現できていないことはハズカシイんじゃないかと。 

そのあとも人生は続き、
紆余曲折のあと、自分の才能に見切りをつけて創作活動を一切やめて、
アウトローではない「普通の社会人」を目指した頃は、辛かったけど、すごく辛かったけれど学ぶことは多かった。
恵まれた、意味のある出会いがいくつかあったのだと思う。
何よりも社会の仕組みとか、使い方が見えてきて。
ときどき、こうして生きている自分は正しいのかなと思わなくもなかったけれど。
社会の中で生きる意味、楽しさ、やり甲斐は見えるようになったし、ある程度の重さとして受け止められるようになった。

ある程度……としたのは、結婚して子どもを育ててという基本中の基本は、結局スルーしてしまったので、です。

で、
そんな生活の中でも、いかに馬鹿馬鹿しくても妥協できないことはあって。
ある日上司から「一匹狼を気取っているのか?」と言われ、「確かに群れることはキライですね」と応えると、相手は黙ったのでした。 それはどうやら、同意はしないけれど共感はできなくないといった沈黙みたいで。
あ。
理解してもらえないわけではないかも。 と思う。
どこかに、共存できる糸口、バランスの取り方はあるのかも、と。

アウトローアナーキストが自分を主張しながら、日本社会の中で生きていく選択。

  

なんてことをキッカケに、
小劇場系なんてカタチで、少し創作活動を再開したわけです。
自分にしかできない方法論、意味を手探りしながらね。
「それは違う」という細かい反発にぐるりと囲まれ、攻撃もされ、
手早く切り替え、注意深く対応しながら、でも、やりたいことはブレないように。

ありがたいことには、
「いつか何かをすると思ってたヨ」とか、「あげんワールドを楽しませてもらった」とか。
他とは違うわたしを、待っててくれてた友人たちが、いて。 

そして今後も、他人様相手に、エゴを押し付けていくわけですが。

 

他人のために、違う自分。
自分のために、違う自分。 を大切にしていこうかな、と思う。