わたしの周囲には、演劇にかかわったり絵やまんがを描いたり、本をよく読むとか人間の世話が好きとかと、「行間を読む」「言葉の向こうにある本心を読み取る」ことに長けている人材が多いと思っていた。
が、
ネットの書き込みとかを見てると、行政のあいまいさや言葉尻にそのまま爆発しているケースが多くて、ちょっと驚く。
行間というかニュアンスというか、何故そういう表現になるかまで読めない?
不安が感性を鈍らせるのか?
わたしは今回のことで、日本人の持つ良心の発現の仕方は正直だなと感じることが多い。
ひどい現実を言いたくもないが、嘘は回避したい心理がせめぎあう表現、
夕べあたりから、放射能の数字を言わなくなった。 金や手間や危険のわりに、手当ての効果がよろしくなかったからなのだろうが、作業に携わった方たちの努力を否定したくない想いもあるのだろうな。
備えて、東京からもっと西へ逃げろという人もいる。
夕べ、寝ながら考えた。
逃げたい人は逃げればいいし。 これから健康な受精卵を作りたい予定のある人たちは逃げたほうがいい。
でも逃げられない人たちがいるのなら、自分は東京で一緒に被曝しよう。
昔、カイワレダイコンを食して命を縮めた総理大臣がいた。 (言いすぎ?)
清濁を引き受けて、大局のバランスを守ること。
痛みを分かち合うこと。
もちろんこれは、強制ではない。
ま、被曝しないですむにこしたことはないけれどね。
TVを消すようになったのは、節電だけでなく、
報道の内容が、冷静な情報よりも情に訴えるモノになってきたことが疎ましくなってきたこともある。
疎ましい? 違うな、わたしは目をそむけたいんだろうな。
戸惑いや不安や無力感を、怒りや嘆きや感謝に置き換えること。 その感情をマスコミが垂れ流すことでガス抜きをしている。
そんなふうに、見えてしまうのだ。
昨日は友人から借りたライト・ノベルを読んだ。
今時の青少年の琴線はこの辺りなのかと興味深いのと同時に、
自分が高二で夢中だったウルフガイ・シリーズと変わりないといえば変わりはないのかも?