あとりえあげん

世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。 HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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『レ・ミゼラブル』を観た

                    2009/3/14 17・00〜 中日劇

こんなトコにこんなコトをあからさまに書いていいものか……と一晩考えて。
でも、書くことにしました。
『レ・ミ』を愛する人たちで、一緒に考えていければいいな、と思い。

           [E:bomb]

「どうだった?」と聞かれれば、ああ、いつもと変わらず良くも悪くも最近のレ・ミゼだったね、と。

えーと、それは冗談なのかな?まじなのかな?って箇所が相変わらず。
誰もこだわらないのね。 
単に出来ない、わからないだけなんだろうけれど、スローモーションの下手さ加減とか。
道具のへなちょこ加減とか。
段取り優先の気持ちのない動作とか、平板な役の解釈とか。 いろいろ。

作品がゆっくりと腐って崩れ落ちようとするのを。
子どもたちは気付かず、おとなたちの手のひらの上で無邪気にはしゃぎ。
おとなたちは、作品が腐って落ちるのを死に物狂いで留めようとしてる。
いい加減、捨ててしまえば?と言うのは簡単だけれど、
それを恥ずかしいと考え、いろいろともがくのも、……選択のうち。

作品をめちゃめちゃにするのは簡単なことなんだ。
役者の多くは繰り返すことに飽き、すぐに思い違いをして好き勝手をし(失礼)、観客にウケればそれを正解だと思い込む。 もしくは自己満足なこだわりを勘違いする。
観客は目先の目新しさやお涙チョーダイに振り回されて、作品の本質から役者を引き離しておきながら、あっさりと見捨てて目移りしていく。 そして嘆く。 最近の舞台はなっていないとかってエラソーに。 (あはは。 誰のことだ?)

だからロングランでは、ストッパーになるシステムが必要になる。
ただ、そのストッパーが『レ・ミ』の場合、役者たちをがんじがらめに縛り上げる。
ある意味、成功しているんだよ。 キャストが入れ代わろうとも一定の水準は死守しているわけだから。
でも逆に、そう、役者が舞台の上で新しく感じることが難しくなるから、
一定の水準以上の芝居にはならなくなる。

ということに気付いている「役者」は、どれだけいるんだ?
そうか。 ミュージカル俳優と役者は、違うのかな?

ここまでやるのか、と思ったのは。
祐一郎さんが、役の解釈を全部放棄して、素に戻してたこと。 (たぶんね)
そして舞台のうえで、新しい接点はどこかって捉えなおそうと耳を澄まし皮膚感覚を研いで、待っているということ。 (たぶん)
ここだけははずせないって箇所だけはしっかりと芝居して。 
アクシデントが起こっていつもと違う空気が立ち上ると、あ、今、なんか拾った……。 発見したね、と。 それを次につなげていくんだろうけれど、うわ、なんてささやかな収穫を、辛抱強く……。
(この説明で、わかる?)

ごめんね。 たぶんわたしは、突然観にいってはいけなかったんだよね。
わたしとしては、ある意味うれしいモノと出会えたわけですが。

           [E:bomb]

ステキだったのは、
前々日まで博多でアメリカ人を演ってらした岡サンが、昨日はジャベを(すごいよね〜)。
身についた演技を、注意深く、迷いなく、新しく確かめながら、存在しようとしてらした。
クールビューティ?なんて言葉を思い出しながら観てました。 
カッキリと、かっこよかった〜。

コゼは、かんださやかチャン。
何をやってもかわいい!って女の子を久しぶりに見ました。 ああ〜、そこで笑うと眼を見張ると、男子は卒倒するよねえってツボを外さない〜。

           [E:bomb]

あとは、わたしの視線がかわったんだろうな。
作品そのものの解釈が、少し変わって見えてきてた。

バルジャンが本当に夢見ていたのは、個としての幸せ、家族を持つという幸せだったのかもしれない。 そして目の前の幸せを大切にすることが、世の中のすべての幸せを願うことに繋がると、はじまりだと、気付いてか気付かなかったのか。 だから義理の娘夫婦の前でひとりの男として死んで行くことが、世の中の平穏への、すべての祈りに通じるのかもしれない、とか。

……あと、どこだっけ。

忘れました。 思い出したら、また書きます。