あとりえあげん

世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。 HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

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歌の種類?

ああ、そっかと言うと、何を今さら?と返されそうなんだけど。
どうやらわたしは、ひとつの考えが頭の中でぐるぐるして先に進まなくなると、ブログに書いて一度決着をつけたい傾向があるのかもな、と。

 

今は何を考えてんのかというと。

同じ歌でも、
ミュージカルとしてお話の流れの中で歌うのと、
コンサートで1曲のショーとして歌うのとでは、
解釈が違ってくるの?と。
当然でしょ?と返ってきそうだね。

その中でも、
クンツェ+リーヴァイ作品だと、もともとが独立した1曲というより、大きな流れの中の一部としてその曲があるわけで、前後と密着してその曲が意味を持ってくるわけで。
そしてコンサートの客層も、クンツェ+リーヴァイの作品になじみのある方が多い場合は?
どっちでもいいんじゃない? ん、それも答えだな。

それを全部、ふまえたうえでの歌い方。
たぶん、もうちょっと演出をつければ作れそう。
あ。オペラやってる人なら、答えを持ってるのか?

 

昔、某劇団四季で同じようにコンサート形式な企画が立ち上がったとき、
(最近でもやっているのかな?)
海外との著作権契約の継続が大きな理由だったのだけれど。
実は演出家は、嫌がっていた。仕事としては楽だけれど、役者が大きな思い違いをしかねないから困る、みたいなことをおっしゃっていた。

その「思い違い」とは何を指すのか? 今さら、考えてみる。
歌手として歌う。役者として歌う。使い分けができるか。
演出家がいる。いない。勝手に歌う。一緒に創る。
拍手の大きさは変わらない。では内容も、変わらないのか? ―― 

歌い出しの1音めが、息を飲んで弱いと、日本語として成立しなくなる。(と思う)
演出家がいたら、たぶんチェックする。
持ち役じゃない歌をコンサートで歌うのだったら、いいのかな。
お客には充分みたいだし? (そういう耳を持たない観客のせいでもある?)

 

以下、先日の感想でする。

シシィ+トート、シシィ+ヨーゼフの曲は、完璧にシーンの再現!で、しかもオトナのやりとり!なので、ブレることなく感動できたのですよ。
(アンサンブルさん中心の曲も、あの人数に係わらず、そのシーンの完璧な再現!だから安定感と感動があるのか!)
5月からの公演でも、このお互いの表情が生まれてきたらいいなぁ。
トートがね、「つっぱりかえってるシシィ、かわいいな」って表情してたんだよ〜
ヨーゼフが、音を通してシシィに寄り添おうとしてた。

いくくんのルキーニ。ステキにやさぐれてるって言えばいいの? アンサンブルを味方につけて役を積み重ねたら、おもしろい解釈が生まれてきそう。
独立した役というより、群集の想いの中からヒトの形として生み出されてカタチとなったルキーニ、という印象かな。

祐一郎さん以外のトートを初めて聴いたわけですが(はははは)、あの曲の始め、シュタンケさんのあのブレスとか、ドイツ語の鼻に抜ける感じとか。日本語だと無理かなあ。祐一郎さんがやると、エッチっぽいかなあ。

そうそう、一番ウケたのがね! 
『R』のフランクさんの歌でした。
ミュージカルで演じているときの千弘さんのあの反応が、はじめて理解できたの〜
傍からきいていると優しげだけど、正面から歌われると、そりゃそーだわ。
(つまり、ミュージカルだとフランクは共演者の「わたし」役に目がけて歌うけれど、コンサートだと正面に向かって歌うわけで、運良くそのライン上の席だと「わたし」役の立場を体感できるわけです。笑笑っ)
(ん。フランク/禅さんには、意味がわからなくてもヨロシイ)

それから「イリュージュン」にブラボー。この短期間で歌いかえるなんて、びっくりだぃ♫