劇作の講座に通ってた頃。小道具を安易に使うな、という教えがあった。
わたしは出自がまんが家なので、小道具こそが描写を豊かに、象徴的に使えるという感覚で。演劇ではむしろ邪魔なのだと理解できるまで、時間が要った。
物理的な小道具は、イメージの可能性を限定してしまう危険を伴う。説明しすぎるのだわね。
そして、役者のからだへの、観客の集中度を分散させかねない。演劇ではまず、役者の肉体が何を語るか、感じてもらいたいのだ。
ということを思い出したのは、
わたしにとって、面白いジャグラーと面白くないジャグラーがいるのはなぜ?と考えてるときだった。
多くの見物にとって、自分には絶対できない技をやってみせてもらうことが、ショーになる。やるほうにしてみれば、練習の成果を見て! 褒めて!と考えるのは当然だろうし。ただ、わたしには、それだけでは足りないらしい。
で。気づいたのね。
わたしの眼が、ボールやグラブの動きを追っているだけで、演者の肉体がみえてないとき、身体の声が聞こえないとき、つまらないのかも。
道具たちのスペシャルな動きよりも、そのときのからだや動きが、ステキな何かを語ってくるとか、別の世界に連れてってくれるとか、その人のヤバイ魅力をこぼしてるとか、なのかも。
橋本Pがよく、ジャグラーは技にばっか走りやがって、つまらーん!と怒ってる意味が、ちょっと見えた気がした。