「煮詰まったぁ!」とメールがあり、劇作をはじめた若い友人が昨夜、仕事帰りにうちにきて、大いに食べて、しゃべってったよ。
食卓について箸をもって一分とたたないうちに、がばとトレーナーを脱ぎ、腕まくりをして次々平らげていく様子は、夕飯を用意した身にはかなり楽しかった。
かの女の書く言葉は芝居と言うよりコント集に近いもので、初めて読んだけれどリズミカルで力強く、奥底にリリカルな琴線も秘めていて、よい台本なのではないかと思った。役者のからだにまかせて動きがついたら、たぶん半分くらいの台詞を削り落とせばいいのかなと思う。
脚本の作法はぐちゃぐちゃで、これじゃあ役者がはじめて読むときわかりづらいから。そこらへんは親切なほうがいいだろうから。そのうち覚えようね、とか言いながら。
わたしはね。昔からの、マンガ家時代から続くドラマ構成が身に染みついているので、いわゆる「空気系」の作風はね、いまだ手探りで。
そのせいか話していると、いかに自分が狭いカラの中にいるかをじわじわ実感してきて。結局、助けてもらったのは自分だったのかもしれないと思う。
終電を考えて追い出し(二十冊くらいうちのコミック本をもってったかなあ)、ふと見下ろすと、ご飯をたべるときに脱いだトレーナーが脱いだ形に捨てられたまま、そこにあった。
本人にメールして、トレーナーはハンガーにかけて、廊下の壁につるす。
おや。自分しかいない巣の中で。赤の他人のトレーナーの、思いがけない存在感よ。なんなんだろう。本人がいるときよりずっと違和感がある。
隣には自分の白いスプリングコートがかかっているのに、そちらはしゅんとして、なんの主張もない。
そういえば、以前誰かが忘れたままのローラアシュレイのミニタオルも、ビニールに入れて壁にピンでとめてあるけれど、すっかり部屋の風景に溶け込んで存在感を消しているというのに。
ああ。これは、かの女の主張の外皮なのかな。すごい主張だ。わたしも見習わねば。自分はここにいるから振り向いてよ!という若さ。いやもう、わたしは持てないか。
こうして。一人暮らしの空間を侵食されたまま、しばらく過ごすことになったみたいだよ。
(ところで今更だけど、あれは誰のミニタオルなんだろう?)