2007/7/27 19・00〜 シアタートップス
nenから週末に一緒に芝居を観ない?とメールが来る。 自分は一度観たんだけれどね、と。 その芝居の劇作家がnenの友人。
でも時間の折り合いがつかず。 わかった、観ておくからと応える。
たぶんnenは、作品について語り合いたいんだろうなと思う。 何か、釈然としない部分を、本人には問いづらいし、わたしの視線で解体してみたいのかな、とか。
えっと。 仕事帰りには、ちょっとした睡魔との闘い。 観ながら手のツボをずっと揉み解していたりして。
当日券の席ゆえ、後ろに座っているのは……劇作家か演出家か(制作か?)と思しき2人の若い男。 対照的な雰囲気で、端正なベージュのスーツとヤサグれた黒尽くめ。 左右に離れて座っていまして。
わたしが舞台から受けたちぐはぐな印象を、この二人が象徴しているみたいな気もして興味深い。
(どっちがどっちで誰なのかは、わからず)
戯曲と、演出・役者とがかみ合っていない悲劇、なのだと思う。
戯曲は欠点もあるけれど、詩的で美しい構成だと思う。 (次の日、偶然読んだ「骨の音」というコミック短編集と世界が被る)
演出・役者はそれを自分たちの流儀で、きちんと丁寧にナチュラルに表現している。
でも、噛みあわない。 体質・体温が違うから。 だから広がっていかない。 (たぶん)
劇作家さん、ご自分で演出したほうがこの世界感を再現できるんじゃないの?
もしくは……。
劇作家が自分で演出する……ことの○×は、目下わたしの迷いの種だから、余計にそう見えるのか。
師匠は、わたしみたいなのは、自分が演出するか、他人に丸投げして口を挟まないか、どちらかを選んだほうがいいと言う。
確かに、去年の秋のリーディングのとき、あ、そこは違うのにと、心の中でむずむずする自分がいたので、自分で演出しないと気がすまないかも?という予感は、充分にある。
一方で、
自分が書いて演出したら、世界が一定の枠からはみ出さないよなあという思い。 信用・尊敬できる演出家と出会えればいいんだよね、と。
正解はないから、
日々、思いは交錯している。
戯曲セミナーでご一緒のしんちゃん(つかサン系の演出家)は、何でもいいからとっとと一度公演してみて、失敗したら?と。
そしたらいろいろと正解が見えてくるから。 理想と現実のギャップ、とか。
……うん……。
結局話は、そこに戻るか。