……観ながら思ったことは、
「舞台」は誰のものか?ということでした。 (思い違いしている役者や、思い違いしている観客も含め関わった全員のもの、という大前提はさておき)
先に言ってしまうと、これは正解のない思考ゲームなのかもしれません。
「舞台」は誰のものか?
特にサスペンス色が強い場合。
観客を絶えずハラハラさせるためには、全体を見渡した細やかな計算の積み重ねが必要なわけです。
一方で舞台は、大勢の人間で構成されるゆえ、時間と共にころころぱらぱら、あっちにこっちに転がったり立ち止まったり。
ね、
舞台全体を方向付けたり、まとめたりはしなくていいの? する権利/責任は誰にあるの?
と考え出すわけですよ。
演出家?
でも「R」の演出家は、初日から3回くらい以降、舞台をご覧になっていないのでしょう?
(先日のアフタートークで、ご自身がおっしゃっていた)
つまりこの2ヶ月、役者は稽古期間につけられた方向性と、自分の感性を頼りに
あーでもないこーでもない、と個々に、日々、試しているわけ、なのかな?
特に気にしてるのは(だけじゃないけれど)、アンサンブルの風合い。 これでいいって、誰がチェックしているのかな?
で、
わたしにクチバシを挟む権利はあるの?
ないよね。
これも、パフォーマンスのうちと割り切るべき?
そして。 だ か ら
悶 [E:run] 悶 [E:run] 悶 [E:bomb] 悶 [E:run] 悶 と、なる。
恐らく、なのですが、
現代性 = 役者の肉体がその時点で感じていることを大切にしたい 考えの結果なのかな、と。
逆の方向から言うと、
「レ・ミゼラブル」などは、これはこーでなければイケナイという、かなり厳しい縛りがあるみたいで。
革命の戦場で歌う「かれを帰して」という曲に、現在の戦争への思いをシンクロさせたりしてはいけなく、あくまでも慈愛を表現することを求められる(みたい?)。
それも方法論だし、ゆえに作品のカラーが変わることなく守られているわけだし。
作品全体のバランスは、壊れ辛いのだろうなとは思うよ。 でもねえ。
それも生身の人間の真実なのかな?
悶 [E:run] 悶 [E:run] 悶 [E:bomb] 悶 [E:run] 悶
ま、商業演劇は、役割の分業化が完璧だからいいのでしょうが。 (一方では良し悪しだな)
自分に身近なところで、
これからユニットで芝居を創るとき、発言権の分配をどうしようかとか考えてみるのです。
いろんなカタチで経験を積んできた人たちの集合体をまとめる上で、
「その作品は誰のものか(誰が責任を取るのか)」
そうすると、他が犯してはいけない線引きが必要かな、とか。
という悩みがずっとわたしのベースにあるので、
うっとりとストレス解消にきているはずの劇場で、
えーと、うーーーん。 と、ストレスを溜めてたりして。
まあ、だから、
はい。
芝居の方向性は演出家さんの範疇。 構成は劇作家の範疇。
とか決めてみると、
このブログでも、
あーだこーだと(祐くん以外の)芝居の解釈をぶっ放すのも、一応、控えてみるわけ、です。
悶 [E:bleah] 悶 [E:bleah] 悶 [E:think] 悶 [E:bleah] 悶
2008/5/27 18・30〜 シアタークリエ
5月は何故か2回続けて、アフタートークにあたりました。
司会のフリスさんの枯れたユーモアを楽しみながら、だってヴァンパイアの悪夢シーンでがんがんにロックしてたボーカルさんだよねえ♡と愉快になります。