あとりえあげん

劇作家・ミュージカル関連のコミックエッセイスト・多摩美校友会理事 活動ベースは三軒茶屋ですが八ヶ岳の別荘で在宅介護はじめました☆

[ブログ版] 世田谷区三軒茶屋で隠居してます。ときどき劇作家。HPはコチラ http://agen.web.fc2.com/

野暮とクール

お風呂に入りながら、思い浮かべた。
「怒ってらっしゃるのですか?」という台詞の前に、怒った芝居をしてみせるのは野暮いよなあ。
 
意外でもなんでもないからつまらない。
(もちろんこの場合、クールであることが正解とは限らない)
 
でも、自分なら?
 
 
手っ取り早いあたりで、
相手の怒った芝居のあとの台詞そのものを、「泣いてらっしゃるのですか?」にするかな。
人は泣くことを隠そうとするから、他の感情に置き換える。その置き換えに気づくことで、ふたりの親近感に深みがでる。

(ぜんさんはよく、怒る台詞を笑いながら言うな)
 
 
もしくは。
 
「怒ってらっしゃるのですか?」のあとの台詞を、
「哀しいのです」とか「泣きたいのですよ」とか、「(泣き声を押し隠す感じで)――」とかで受ける。
 
 
ふむ。
 
正解はないのです。あくまでも、わたし好みにすると、という解釈。
 
 
でも、こうやって、気もちの中を手さぐりするのが、
世の中の神秘にチョットだけ近づく気がして、とても楽しい。
 
 
 
まあ。
役者というのは、基本、自分をいい人に見せたいって解釈の芝居をしたがる傾向があり、
(その台詞をそう解釈するのかっ?とトキドキすっげぇびっくりする)
 
そうするとシーンが平板になってシラけるので、
 
ひねりたくなる(否定はしない)のが、演出や脚本のサガ、というか趣味、っていうか??
 
 
 
んんん。
 
世の中で、韓流ドラマとか説明的で明快な描写がウケるのは、
そういう人の気持ちのゴチャゴチャを分析しながらドラマを観るのが苦手!な人たちが
多いってことかしらね?
 
そういえば。
シェークスピアのキャラって、客には絶対嘘をつかないんだそうだ。
「怒っているの?」ナンテ言われたら、自分の気持ちを細々といろいろと装飾的に語るわけだが、
そこに裏の意味はない。
言葉で笑って心で泣いてナンテことはないんだそうだ。
 
シェークスピアを楽しんだ客たちは、民衆たちだった。桟敷席では貴族や王族たちも楽しんだ。
俗と文学がキメラしているはずで、わたしはその両方を読み解きたいなと思うの。
 
というわけで、ミュージカルの野暮いことの「必要」を一生懸命に取り入れようと考える。
 
 
 
ベタな説明というのは価値観の安定、だよね?
 
自分なりの判断、に対する不安があるから? その安心を与えるために、説明的であるべきなの?
(日本人は特に「みなさん」の判断にそろえたいわけだし)
 
最近の文化の野暮ったさは、そのへん。
「号泣した」とか「鳥肌がたった(←だいたいこの10年の間に、言葉の意味変わってるし)」とか、
客の感受性からしてが、野暮い。
  
そこを超えるとクールに感じてくる? が、やりすぎも自己満足っぼくてシラける。
言い訳ばかりが前面に出てくる。
作品そのもののチカラより、プレゼン能力が評価されるのが、昨今のアートの傾向よね。
 
 
 
よくワケがわかんないんだけれど、楽しい。楽しい自分がうれしい。
わたしが好きなのは、そのへんなんだけれどなぁ。
 
ホラね、
 
恋に、とてもよく、似ている。
 
 
 
う。
 
 
 
そそそそうか。
最近は、恋にすら、相手と自分の振動や革命を求めないのか?