去年の暮れのキムさんのレクチャーで、受講生が自己紹介する機会があった。
当然わたしが 会社員です と言ったら、くっとキムさんが噴出した。 ああ、まあ、そうだったね、みたいに。
それから、
天邪鬼なわたしとしてはスッカリ、
自分が会社員であると名乗りたい気分になっている。
クリエーターでいることよりも。
(まあ他の、場合によって、会社(工房)内のデザイナーですと名乗るわけだから、ちょっとズルい部分も残るのかもしれないが)
昔、わたしがまんが家をしていたころ、両親に言われた。
たとえどんなに傑作を描いたところで、人間として社会人としてキチンとしてなかったらナンの価値もないんだよ。
「そりゃまたストイックなことだなあ」と、それを聞いた らんさんが言った。
うーん。
でもわたしは、そう思い込んでしまいましたね。 自分の本質がアウトサイドだって身に染みていたから、まあ、普通の人間になるってことは挑戦であったからかもしれない。
なので。
今、目指す肩書きは 「会社員/劇作家」 とか。
おお、かっこいいじゃん。 ……と思うのは、わたしだけか?
今、劇作家の間では、1本の作品を書くための資料として最低100冊の本は読むべきだ という考えが浸透している。
(これは井上ひさし大先生の 戯曲1本=資料5000冊!という伝説に起因するらしい)
それは、もちろん、そうなのだろうけれど。
とっても、そうだと思うけれど。
あのね。 自分にとって、だけですが、否定的になりつつあります。
わたしもね、100冊とは言わなくても「エゴイスト」や「虹のコチラで」を書くためにちょっとは読んだのですよ。 でもね、ほぼ全然、役に立たなかったんだもの。
意識下に何か働きかけはあったかもしれない。 けど、結果として、文末に参考資料として書き出すべき本か? 違う。
だってわたしが描きたいことは、わたしが日常の中で感じていること。 考えていること。
どうすれば伝わりやすくなるだろうと設定を組み立てて、壊していると、世界が少しずつ別の方向にズレていって。 勉強した他人様の考えや事例とは全然関係ないトコにたどり着いてしまう。
どっちかといえば100冊の本よりも。
会社の内外で起きることや、
工房で垂れ流して聞いているラジオの内容とか、
友人らと飲みながらの会話の中に。
わたしを促す資料は、あるのだと思う。
といいつつ、次に書くであろう「春酔いの島」のために、わたしは天皇制について読まなければいけないのかなぁ。 …………。
nenが去年、会社をやめたあと、聞かなきゃいいのに「で今は1日、どれくらいの時間ホンと向き合っていられるの?」なんて聞いちゃって、あまりの羨ましさに身もだえした。
でも。
今回セミナーの提出物を書くとき、なかなか作業にとっかかれなかったくせに、
冬休みに入ってゲームを自分に解禁したら、さくさくと集中的に書けてしまったんだ。
それで気付いた。
わたしは書く時間よりも、考えている時間が長い。
そしてPCやノートの前に座っているときは、考えているフリはしているものの、ロクに考えてなんかいない、たぶん。
むしろ、テーマを意識下に泳がせながら他の手作業とかをしているときに、アイディアなんてのは降りしきってくるわけで。
となると、たくさんのほかの事をしている自分って創作のためにはいい状態?
といいつつ、工房の仕事に疲れ果ててつぶされている現状では、実質的に書けない!ンだけれどね。 …………。
でも。
まあ、
だから、
クリエーターであるために、会社員であることはかなり大切なんじゃないのか?と
最近 思うわけです。
こないだ、なっちとぶみさんにふたりがかりで、ブログの文章量が多いネと言われたんだけれど。
わたしが書き出すと、やっぱこの量になるなぁ。